【反省は】玉の輿なのにやらかした件。【していない。】
気がつけば私はそう口にしていた。
電話をかける前の小刻みに揺れる不安な気持ち、なんとか現状を維持して何も決めずにこのままでいたいという弱い心はもうすっきりと晴れていた。
電話の向こうでしばらく沈黙した後、彼は答えた。
「今後は三千万の話、ではなく、『結婚の話』と表現していただけるとこちらも話しやすいのですが」
「あ、すみません。気がつかなくて。
えっと、結婚の代わりにお金を受け取る話は内緒なんですよね」
「北条家の当主の嫁となる人の支度金が三千万円だというのは妥当な話ですので内緒と言うほどでもありませんが、まあ人はいろいろなことを言いますので、できれば人にはいわない方がいいでしょう」
「了解です」
なるほどね。北条家の当主の妻ともなれば憶測を呼ぶような発言は慎んだほうがいい、というわけか。これは今後の課題だな。私はわりと気持ちが顔や態度に出るほうだから。
すると、景久さんはかすかに笑った。
「今後、あなたにはいろいろと覚えていただくことがありそうですね」
随分と上から目線の発言だ。年下の癖に。
「なんにせよ、僕の求婚を受けてくださって嬉しいです。あまり強引なことはしたくなかったので」
「強引なことって……どういうことですか」
私の脳裏に景久さんに連れて行かれた例の料亭の離れが蘇った。
なんだかんだ言っても私はか弱い女の子で、普段の運動不足が祟ったのか、腕力も脚力も年々落ちていっている。男が本気で私を陵辱しようと思えばそれほど難しいことではなさそうだ。
この現代社会で町娘と悪徳代官の例のアレが再現されるのだろうか。
青ざめる私に景久さんは穏やかな声で説明した。
「僕は金で妻を買うような男です。
あなたがこの結婚について金で納得しないなら、あなたの家族を困らせて圧力をかけることも、あなたに結婚を承諾させる手段の一つになりえたでしょうね。
僕としても妻になる人の恨みをかいたくありません。だから今回、たまたまあなたのご実家が窮していて、同時にあなた自身も窮していたこと、僕個人としてはとても幸運なことだと思っているのですよ。
家のためとはいえ金で女性を買うようなこんな下劣な手段を取ってしまったのですから、僕が今さらあなたに夫として信頼されようとは思いませんが、無駄に嫌われ軽蔑されるのは僕としても気分のいいものではありません。
これから僕たちは一生のパートナーになるのですからなるべく友好的にいきたいと考えるのは自然なことですからね。
それでは、今後とも、よろしくお願いします」
金で買った妻の機嫌などどうでもいい、といった扱いを覚悟していたのに、景久さんは案外紳士であり、金で買った妻だからと私を下に見る気はないようだ。もちろん野蛮な手段で既成事実をつくろうなんて考えは発想すらないみたい。
そういうところも成金にはない育ちのよさを感じさせる。
私は先ほど感じた自分の勘が間違っていなかったことを実感した。
恋ではない。愛でもない。けれど、私はきっとこの人とうまくやってゆけるだろう。
「こちらこそ、よろしくお願いします。
それで、……言いにくいんですけど、お金はいつ……いただけますか。
弟の借金には利息が結構つくらしくて、出来れば早めに処理したいんですが」
「かなりお急ぎのようですね」
「あ……いや、恥ずかしながらわりと高利なところで借りたらしくて。利息っていってもばかにならないんですよね」
「法定金利を越えた金額を要求されているならば弁護士を紹介しますよ」
やはり景久さんも同じ事を思ったのか。
私も春彦から借金の話を聞いたときにはまずそのあたりを疑ったのだけれど、さすがにそれはなかった。まあ海しか知らない春彦がいきなりそんなコアなところからお金を借りるすべを思いつくはずが無いわよね。普通の人はまず大手の有名どころから借金をする。
「あー……イヤ、その辺はギリギリ大丈夫みたいです。私も計算してみましたけど」
「そうですか。では、明日の朝秘書に届けさせましょう」
怖れていたわりに、彼は私の話を事務的に受けてくれた。
私としては弟の借金の話なんてまだ親戚にも相談できていないほどのことで、景久さんになんて尚更言いにくい。けれど彼はまるで保険の契約でもするような口ぶりで、かえって気が楽だった。借金のことを馬鹿にされるのもつらいが、変に同情されるのもやっぱり恥ずかしい。
三千万で結婚を承諾するなんて、人として落ちるところまで落ちた感がある。少なくとも私はそう思う。
けれど、彼は少なくとも表面上は私の決断をさらりと受け止めてくれて、あからさまに私を嘲弄するようなことはなかった。
……まあ、こんな契約、人としてどうかって部分は買うほうも売るほうもお互い様なんだけど……売るほうのみじめさは買うほうのそれよりもより一層きつい。だから彼のこのビジネスライクな態度は金で買われたという事実の割には私の心を楽にしている。
まあ、なんとかなるわよ。
普通の人は惚れた相手と一生添い遂げるつもりで結婚するけれど、それでも今の日本の離婚率は25パーセントだ。
そして私たちはといえば愛情あって結婚する人たちとは違い、相手に対して何の愛情も無いわけだ。案外すぐ離婚になるかもしれない。案ずるより産むがやすしと昔から言うじゃない。よし、やってみよう。数年間人妻のふりをするだけで私の家族も助かるし景久さんも助かるならむしろ悪くないお話なのかも。