【反省は】玉の輿なのにやらかした件。【していない。】
その時、かすかな衣擦れの音と、そして清げで品のよいお香が隙間風に乗って部屋に入り込んできた。
私は動きを止めた。いや、動けなくなった。そのくせ心臓だけは息苦しくなるほどに激しく鼓動を繰り返している。
乾いた木のきしむ音と共にゆっくりと御簾の向こうで扉が開いた。
私は几帳を立てた奥の寝所にいるので、それがはっきりと見えたわけではないけれど、気配で分かる。
品のよい香りは彼がこちらに近づくと共に次第に濃くなって行く。
ヒ、ヒイイィ。
私は自分の着物をぎゅっと握り締めた。高価な着物が皺になってしまうとかそんなことはもうすっかり頭から抜けていた。
逃げても無駄だと分かってはいるのだが、ずりずりと膝で後方へと下がる。立って歩くことはできない。何しろ着物が重過ぎて自力では立ち上がれないからだ。
御簾を上げる音がかすかに響いた。そんな些細な音さえはっきりと聞こえてくるほどに、本殿の中は静まり返っているのだ。せめて耳がおかしくなるような音量のユーロビートでもかかってくれていればこれほど緊張することもないはずなのに。
「巫女さま」
景久さんの声に、私はヒッと声を上げた。
彼は几帳にすがるようにして緊張でぶるぶると震えている私を発見すると、その場で立ち止まった。
「美穂さん。大丈夫ですか」
「やっ……あの、……そういうのじゃないんです、でもっ……なんか緊張しちゃって!!」
彼は小さくため息をつくと、その場で床に片膝をついて少し身をかがめた。
「そちらに行っても?」
「や……あ……はいはい。大丈夫です全然問題ないです!」
口ではそう言いながらも私は全然大丈夫ではなかった。声がひどく震えて、緊張のあまり吐きそうだ。
こんな状態で行為に及んだところで緊張で乾ききった私はきっと血を見るに違いない。
彼はそっと寝所に入ってくると、私から50センチほど離れた場所に座った。そしてもう冷め切ったお膳を引き寄せて二つ揃った杯に酒を注いだ。
「飲みますか」
「この状況でよくそんなことがいえますねっ……わ、わわ私は」
「ご不安なのはよくわかりますが、僕もあなたも死を覚悟してまで互いを拒むほどの理由はないでしょう」
非常にドライなものの考え方だ。
彼の言うことは全くそのとおりであってこちらも反論する気はない。私もそれに納得したから気が進まないながらもこの本殿で婚儀に臨んだのだ。でもいざとなったら不安だし緊張するしでどうしても逃げたくなってしまう。
頭では何もかも納得しているのよっ、でもっ……!
「こんなとき、僕はどうやってあなたの助けになればいいのでしょうね」
景久さんがぽつりと呟いた。
この人はこんなときまでいい人だ。自分だってこんな形で人と寝るのはイヤだろうに、まず私の心配をしてくれる。
いい人なのだ。どこまでも紳士なのだ。
「か、景久さん」
「やっと顔を上げて下さいましたね」
彼はふっと優しい笑みを浮かべた。そんな顔を見ていると、私がもしここで逃げたとして、この人はどうなるのだろうかと考えた。
この人を縛り、人として当然あるべき幸福を取り上げてしまう北条家がひどく人間味にかけて、むごいような気がした。ここで私が逃げて、もし逃げ切ることが出来ても彼はまた次の巫女さまと結婚することを求められるのだろうか。
「景久さん、……一緒に……逃げませんか……?」
気が付くと私はそう口にしてしまっていた。