うましか
馬編
ぜえはあと息を切らしながら、母校へ続くゆるやかだけど長い坂を上りながら、あの日のことを思い出した。短い恋が終わった日のことだ。
十年前、夏の終わり。わたしは放課後の教室で、4Bの鉛筆を握って立ち尽くしていた。まさか告白もしないまま恋が終わってしまうなんて思わなかったから、この感情をどうすればいいのか分からなかった。
わたしを選ばないなんて馬鹿だ。後悔しても知らないんだから。と言っても、彼とはそんなに接点があったわけではない。同じクラスで、掃除のときにしか機能しない班が一緒だった。たったそれだけ。告白したらオーケーしてもらえただろうなんて思わない。だからゆっくり時間をかけて親しくなろうと思っていたのに。その結果がこれだ。
彼に、恋人ができた。クラスで一番可愛くて明るくてムードメーカーの、わたしなんかじゃ到底敵わないような子。というのは仮の姿で、実際はそれとは真逆の子。よりによって彼女を選ぶなんて。本当に馬鹿だ。
彼の机を指で撫でたあと、行き場のないその気持ちをぶつけるよう、持っていた鉛筆でそこにでかでかと文字を書いた。馬、と。消すのはさぞかし大変だっただろう。
あれから十年。時の流れはわたしの中からその記憶をどこかへ運んで行ってくれたけれど、今こうして思い出すということは、心のどこかでまだ彼を想っているのかもしれない。
八年ぶりにこの坂を上るのにはちゃんと理由がある。母校の野球部が夏の高校野球全国大会へ初出場を決め、今日は初陣。卒業生や現地に応援に行けなかった在校生が集まり、パブリックビューイングが行われるのだ。
世の中はお盆休みだけど、雑貨屋で働くわたしにそんなものはないし、後輩たちには悪いけれど行く気はこれっぽっちもなかった。だけど、こんなことでもないとなかなか集まれないし、と友人たちが代わる代わる連絡を寄越して、結局行くことに決めた。雨で試合が順延になったというのも大きい。ちょうど休みと重なったのだ。ただし昨日は六連勤の最終日で、しかもどうしても検品を終わらせたくて遅くまで残業をしていたから、疲れ果ててアラームにも気付かず寝こけていたのだけれど。試合開始予定時刻は一時だから、すでに一時間の遅刻だ。
ゆっくりと景色が流れ視界に入ってきたのは、学校の敷地を囲む急斜面の芝生。その上に見えるフェンスには、祝・甲子園出場、の横断幕。懐かしさと真新しさが同時にやってきて、不思議な気分になった。
ようやく校門まで辿り着いて、学校名が刻まれた石をぼんやりと見つめる、懐かしい。芝生も校門も、見上げた校舎も体育館も、あの頃と何も変わっていない。変わっていないとしても、確かに八年という月日は流れ、もう戻れはしない。そう思ったら急に寂しくなった。なんだかんだ言って、学生時代が一番楽しかったな、と。少し感傷的になっていたら、背後からざっざっと足音が聞こえた。無意識に顔を向けると、そこにいたのは思いもしなかった人物。
息が、止まるかと思った。
横断歩道を渡って来た男性が、見知った人だった。見知った、と言っても、わたしが知る容姿とは少し違っている。表情が昔よりずっと大人っぽくなった。
「こ、ばやしくん」
名前を呼ぶと男性は顔を上げ、わたしを見、そして首を傾げる。
「どちらさまですか?」
まあそうだろうなと予想はついていた。彼の記憶に残るほどの接点はなかったから、忘れられてもなんら不思議ではない。でも実際はっきり言われるとショックだったりする。
坂を上ってきた疲労も相まって言葉が見つからない。頬を伝う汗もそのままに硬直していると、小林くんはその切れ長の目を細めてふっと笑った。
「うそうそ。憶えてるよ、笹井さん」
そう言われても、やはり言葉が見つからなかった。嬉しい。憶えていてくれた。大した会話もしたことがないわたしのことを、ちゃんと。
小林くんはわたしの隣に立って、腕時計に目をやる。
「試合?」
「うん、そう、甲子園」
「もうとっくに始まってるよ」
「小林くんこそ」
「寝坊して」
「わたしもだよ」
「笹井さんが遅刻するイメージないけど」
「ゆうべ遅くて」
「デート?」
「まさか。仕事」
まさか。学生時代大した会話もしたことがない小林くんと、こんなに自然に会話ができるなんて。それが何より驚いた。それだけ大人になったということだろうか。
「汗すごいよ、大丈夫?」
「ん、駅から歩いて来たから」
「電車で来たの?」
「車。駅の裏の駐車場に停めろって連絡があって」
「そうなの? すぐそこの町民体育館に臨時駐車場って貼り紙あったから、そこに停めちゃったけど」
「え、そうなの?」
なんてことだ。じゃあ炎天下、ぜえはあ言いながら坂を上った時間は無駄だったということか。大きなため息をつくと、小林くんは肩を揺らしてくつくつ笑い、手の甲でわたしの額の汗を拭ってくれた。その流れるような行為に驚いて顔を上げる。こんなこと、余程親しい関係でなければできないだろうに。小林くんは何事もなかったかのような表情で「行こうか」と促した。
並んで校門をくぐり、昇降口まで続くゆるやかな坂を上った。
小林くん、背ぇ伸びたな。学生時代トレードマークだった黒ぶち眼鏡もしていないし。コンタクトにしたのか。私服も初めて見たし。Tシャツにジーンズというラフな格好だけど、制服姿しか見たことがなかったからなんだかすごく新鮮だ。それに昔よりずっとかっこよくなった。
「笹井さん、変わったね」
「え、そう?」
「化粧とか髪型とか。正直最初誰だか分かんなかった」
「そりゃあ学生時代はすっぴんだったからね」
「私服も初めて見たし」
全く同じことを考えていた。緩む頬を隠そうともせず、さっきまでの疲労も忘れ、ゆっくりと歩を進める。
学生時代、こんな気分でこの坂を上ることは一度もなかった。元々朝は苦手なのに、満員のバスに揺られ、下車してすぐに坂を上る。毎朝憂鬱で仕方なかった。どうして坂の上にあるこの高校を選んでしまったのか、と。後悔したのは一度や二度じゃない。
なのに今はこんなに楽しい。もうあの頃に戻れないことが残念で仕方ない。
坂の途中にある階段を上ると、正面に古びた第一体育館。その横に駐輪場、校舎がある。何もかもが懐かしい。ここも、昔とちっとも変わっていない。その変わらない風景が、忘れていた記憶を呼び覚ましていくのを感じた。
「自転車逆さま事件憶えてる?」
ふと、小林くんが切り出した。
「憶えてるよ。志賀くんと橋本くんの自転車が逆さまになってたんだよね。絶妙なバランスで立っててさ」
「結局誰がやったか分からず仕舞い」
「くまさん事件も」
「なにそれ」
「健くんの自転車のかごに、くまのぬいぐるみが入れられてたの」
「健は男女共に人気があったからなあ。男子がふざけたか女子からのプレゼントか」
「それも結局誰の仕業か分からなかったんだけどね」
「謎が多い世代だったな」
昇降口を過ぎ、中庭を横目に職員玄関までやってきた。目の前にある総合グラウンドに人の気配はなく、代わりに頭上の教室から歓声が聞こえる。試合は大分盛り上がっているみたいだ。
職員玄関を入ってすぐ左手にある事務室もまた盛り上がっていた。仕事そっちのけでテレビの前に集まり、球児たちの姿に一喜一憂している。
何度かガラス戸をたたくと、ようやく用務員さんが気付いて窓を開けてくれた。わたしたちが在学中お世話になっていた用務員さんだった。もうすっかり白髪頭になってしまっている。
「ここに名前を書いてこれ首から下げて。スリッパはそこにあるから」
言われた通り用紙に名前を記入し、ゲストと書かれたプレートを首から下げると、用務員さんはおかしそうに笑った。
「思い出した、文芸部の笹井さんと、遅刻魔の小林くんか!」
「え?」
「遅刻のことは思い出してほしくなかったな……」
苦笑する小林くんを見て、今度はわたしが笑う番。そういえば小林くん、よく遅刻していたっけ。遅刻をした日はカードに判子をもらわないと教室に入れない。カードは青から始まり、十回ごとに黄色、赤とランクアップする。赤のカードがいっぱいになってしまったら保護者面談が待っているのだ。
「校内はまだ憶えているか? 観戦は三階の合同講義室だよ」
半笑いの用務員さんに送り出され、階段を上る。
「結局何色のカードまでいったの?」
聞くと小林くんはばつが悪そうに頬を掻いて、でもちゃんと答えてくれた。
「赤のカードがいっぱいになって、一度親が呼び出されて。それでおしまい。赤カードの次も赤カードだからね。遅刻しないように気合い入れた」
それでも遅刻三十回以上は凄い。
「一応言っておくけど、遅刻王は千葉」
「そうだねえ、千葉くんは遅刻魔だったねえ」
千葉くんとは三年間同じクラスだったけど、彼こそ本当に凄かった。ほぼ毎日遅刻して来て、カードを手に教室に入ってくる姿はもはや貫禄があった。わたしが知る限りでも、三年間で保護者面談が四回は行われている。
「小林くんも千葉くんも自転車通学で大変だったでしょ」
「一時間くらいかかったよ」
「そりゃ大変だ」
「最後にあの坂は地獄だった」
「だよね。今歩いて上ったけど地獄だったもん」
その足で三階まで上るのも結構な地獄だ。きっと明日は筋肉痛でのたうち回るだろう。
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