うましか

 合同講義室を覗くと、むわっとした空気が溢れてきた。中高年から若者、在校生らしき少年少女たちが数十人も集まって、大型テレビの中の球児たちに声援を送る。パイプ椅子は用意されているものの、座れない人たちも大勢いた。
 カキン、という金属音が響き、途端に歓声と拍手が巻き起こる。この一体感にちょっとだけ感動した。年齢も職業も全く違うであろう人たちが集まって、意志を通わせているなんて。
 ただし一体となったこの教室の中に、何食わぬ顔で入って行く勇気はなかった。
 ちら、と小林くんを見上げると、彼も困ったようにわたしを見下ろし、そしてこう言った。
「少し、話さない?」
 この提案に、わたしは黙って頷いた。


 四階、一年五組の教室。小林くんとわたしが、三年間で唯一同じクラスだった場所に来た。夏休み前に廊下のワックスがけをしたのか、鼻につくにおいが充満している。
 教室に並ぶ机や窓際に設置してあるヒーターの上には、教科書や辞書が置きっぱなしになっていたり、黒板に無意味な落書きがあったり。
「昔も今も、あんまり変わらないね」
「だな」
 わたしたちの時もこんな感じだった。何でもかんでも学校に置いていった。長期休暇だからって全部持って帰ったりはしない。宿題に使うからとたまに持ち帰ったりすると、必ず家に忘れて来てしまって、別のクラスの友だちに何度も借りる羽目になった。
「どこの席だったか憶えてる?」
「入学当時に座っていた席なら。一番前。すっごく嫌だった。毎日先生に指されるし」
 廊下から数えて二列目の一番前。座ってみると、小林くんは教壇に上ってわたしを見下ろした。
「先生との距離、こんなに近かったんだね。そりゃあよく指されるわ」
「真ん中の二人より指されてたよね」
「この席のせいだと思ったのに、席替えの後ここに座ったみんなはそうでもないしさ」
「笹井さんちゃんと顔上げて授業受けてたから指しやすかったんじゃない?」
「そうなの? その時教えてくれたら俯いたのに」
 まあ、気軽に話すような仲ではなかったから、助言をもらえないのは当然なのだけれど。
「俺は後ろから、ちゃんと先生の話聞いてて偉いなって思ってたよ」
「わたしすぐ肩こっちゃうから、ずっと下向いてるのがしんどくて。顔上げながら板書してたの」
「あれ、じゃあ先生の話を聞いてたっていうより、肩を労わってたんだ」
「そうそう」
「すごく良い印象だったのに」
「え、もしかして好感度下げた?」
「ちょっとね」
「じゃあ今のなし!」
 小林くんは切れ長の目を細めて笑うと、教壇から下りて窓を開ける。窓からはむわっとした風が流れ込んできて、髪がさらさらと揺れた。
「十年も前のことなんてもう思い出せないと思っていたけど、少しのきっかけで思い出すもんだよね」
 呟くような声。小林くんはこちらに背を向けたまま窓枠に手を置いて、そんなことを言った。そうだね、と同調しながらその背中を見つめる。そういえば学生時代は背中ばかり見ていたっけ。隣にも正面にも立てないから背中。密かな片想いの証だ。十年前と違うのは広く大きくなった背中と、振り返って「笹井さん」と呼んでくれるということ。
 振り返った小林くんはわたしと目が合うとにっこり笑って、教卓のすぐ前の席に腰を下ろした。そして懐かしそうに机を撫でこう言った。
「一年の秋くらいに、俺がこの席だったの憶えてる?」
 どう返答するべきか迷った。その席はあの日わたしが片想いを終わらせた席。もしかしたら小林くんは、あの落書きのことを思い出したのかもしれない。それなら、あの時のことを笑い話にするチャンスだと思った。
 少しずつ速くなっていく鼓動を感じながら、わたしは静かに頷いた。
「憶えてるよ」
 小林くんが落書きの話題を持ってきたら白状しよう。十年前の想いを、笑いながら。そう思っていたのに。
「ある朝登校したら、俺の机にでっかく馬って書いてあってさ」
「うん」
「誰がやったか不明の未解決事件だったけどさ」
「うん」
「犯人は笹井さんでしょ?」
「へ?」
 予想外の展開だった。あの日のことなんて小林くんは憶えていないだろうし、思い出したとしても誰がやったかなんて気付いていないだろうと思っていたのに。全て、バレていたのか。
 しらばっくれても仕方がない。素直に頷くと、小林くんは「やっぱりね」と笑った。
 さあ、どこから話そうか。今まさに青空の下で熱戦を繰り広げている、名前も知らない後輩たちには悪いけれど。
 十年越しの告白は、さぞ面白い笑い話になるだろう。





                                       (了)
< 2 / 4 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop