うましか
十年前。十六歳、高校一年生。登校すると、机にでかでかと字が書いてあった。馬、と。意味も、誰がやったのかも分からなかったし、友人たちは笑うだけで消すのを手伝ってくれないし、消しゴムは真っ黒になるし、散々な日だった。
ようやくその意味を理解したのは数ヶ月後。当時付き合っていた彼女――岡崎が、明るくて可愛いムードメーカーではないと気付いたとき。彼女の我が儘を全て聞き、宿題を見せ勉強を教え、昼食や学校帰りの買い物代を全て払い、友人たちの悪口や噂話を聞かされ続け、上辺だけを見て告白した自分が馬鹿だったと自嘲したとき。はっと気付いた。あれは馬鹿の「馬」だったのか、と。
岡崎とはその後すぐに別れたが、気になるのはあの落書きをした人物の正体。あんなに濃い鉛筆を持っている人物を探し出せばいいのだけれど、同級生全員のペンケースを覗くわけにもいかず、特定は半ば諦めていた。
ようやく見つけたのは高校二年の冬。しかも偶然の出来事だった。通りかかった教室から「笹井さん美術部でもないのになんで4Bの鉛筆使ってるの」という声が聞こえた。
一年生のとき同じクラスだった笹井さんのことを思い返してみると、他の子よりも落ち着いていて、一歩引いて周りをじっくり見ているような子だった。なるほど、彼女なら岡崎の本性も気付いていただろう。
でもクラスも離れて接点なんて全くなくなってしまったし、何と話しかければいいのか分からない。考えているうちに二年生が終わり、三年生になった。三年生でもクラスが離れ、話しかけるタイミングを計っているうちに本格的な受験シーズンになって忙しくなった。話しかけることすらできない僕は、やはり馬鹿だと思った。
そして高校生活最後の日。いつもより早く登校して、あらかじめ調べておいた彼女の下駄箱に紙を入れた。鹿、と。一文字だけ書かれた紙。ゆうべ二時間かけて書いた明朝体の鹿だ。あの時馬鹿だと伝えてくれたお礼と、難しすぎる暗号を出したきみは馬鹿だという意味をこめて。
彼女はこの意味に気付いてくれるだろうか。
下駄箱の扉を閉めると、なんだかひどく脱力した。まるで失恋でもしたような気分だった。
話し終えると、彼女は眉根を寄せて、ううううん、と悩ましい声をだしていた。
「下駄箱に、鹿……?」
どうやら僕が入れた紙のことなんてすっかり忘れてしまっているらしい。
「二時間かけて書いたのに、意味なかったか……」
「わ、ごめん、違うの、卒業式の日はやたら荷物が多くて」
「卒業前に持ち帰らなかったの?」
「持って帰ったよう。でも友だちや後輩たちからプレゼントもらって。花とか色紙とかおもちゃとか。あと部活で書いた小説をわざわざ本にまとめてくれたり。それを全部袋に入れて」
説明の途中、彼女は突然言葉を切り、切った口のまま僕を見つめた。
「思い出した。文芸部誌の間に紙が挟まってた。意味不明な落書きとかメッセージとかもたくさんあったから、それも後輩たちの仕業だって思ってたけど、まさかそれが……」
「ん、俺」
「言ってくれれば良かったのに」
「笹井さんこそ。言ってくれれば良かったのに」
「だって、会話するほど仲良くなかったし」
「若くて、馬鹿だったね」
「そうだね、ほんと、馬鹿だった」
ようやく彼女が笑う。僕も安心して笑って息を吐いた。八年温めたこの話ができて良かった。高校野球観戦の連絡をもらうまですっかり忘れていた出来事だったのに、彼女に話したことで身体が軽くなった。そのお陰でこの八年、どれだけ身体が重かったのか気付くことができた。
「じゃあ今度はわたしの番ね」
安心しきった僕に、彼女が言う。
「なに?」
「わたしがどうしてあんな落書きをしたか」
「うん」
「小林くんの予想通り、馬鹿の馬だったんだけど。あれは、わたしを選ばずに岡崎さんを選ぶなんて馬鹿だなあって意味」
「え?」
「そして岡崎さんのことを知らせるための暗号なんかじゃなく、あれはただの憂さ晴らし。むしゃくしゃしてやっただけ」
やっぱり自供した犯人のようなことを言って、彼女は目を細めた。
「一年生の時、小林くんのことが好きだった。好きだけど会話なんてほとんどない、ただのクラスメイトだから、時間をかけてゆっくり親しくなろうって思った矢先に失恋して、ついカッとなってね」
突然のカミングアウトだった。まさか八年温めた笑い話に続き、いやこんな始まりがあったなんて。
「あの頃は恋愛経験がなかったから、好きな人に彼女ができたイコール片想いの終わりだって思い込んでたの」
「それは可愛い思い込みだね」
僕がそう返すと、彼女は肩を揺らしてくつくつ笑った。
「そっか、笹井さん俺のこと好きだったのか」
「若かったねえ。入学してすぐ、絆創膏をもらっただけで恋に落ちたんだから」
「俺そんなことした?」
「ん、体育館掃除の時かな。転んで膝を擦りむいちゃって。そしたら小林くんが、余ってるからってくれたの」
「優しかったんだなあ、俺。そんなかっこいいことして」
「そうだね」
「ちょっと。つっこんでくれないと自画自賛する男で終わるんだけど」
「そうだね」
なんてことない雑談が、楽しくて仕方ない。昔の僕たちじゃあ、こうはならなかっただろう。きっとこれが、大人になったという証。あの頃の話もした。少しだけ仲良くもなれた。もうすぐ試合も終わるだろう。今はもう大人として、それぞれの道を歩んでいる。この些細な時間の共有は、今日だけのもの。そう思うと、急に寂しくなった。
「今日小林くんに会えて、本当に良かった」
彼女がすっきりした声色で言う。
「俺もだよ。俺も、笹井さんが好きだった」
「小林くん、話噛み合ってないよ」
「うん、でも好きだったよ」
黒板の方を向いたままそう言って、静かに右手を差し出すと、彼女は「話聞いてる?」と呆れたような声を出し、それでも左手で僕の手を握ってくれた。
小さい手だと思った。温かい手だとも思った。できればずっとこうしていたいと思った。今日だけのことではなく、願わくは明日も明後日も。
それなら口に出せばいい。共有できる思い出はほとんどないけれど、これから共有できる思い出を作ればいい。それをなかなか言い出せない僕は、やはり馬鹿なのだろう。年はとっても、あの頃から何も成長していない。
その時、彼女と僕の携帯電話が同時になって、繋いだ手が離れてしまった。ディスプレイには今日僕を誘った友人の名前。彼女の方も同じだろう。彼女は慌てて廊下に出て、電話に応じる。それを確認してから、僕は通話ボタンを押した。
「もしもし祥太、おまえ今どこにいるんだよ、試合終わっちゃったぞ」
「悪い。今笹井さんと教室にいる」
「笹井も来てんのか。こっちは関や千葉や健や鈴村たちがいるんだけどさ、これからみんなでメシ行こうって。祥太も来るだろ?」
ああ、この時間の共有もついに終わりか。電話を切って、つい数分前まで彼女に触れていた右手を見つめる。汗でびしょびしょ。こんな手を握らせていたなんて申し訳ないが、もっと手汗をかいたとしても、ここでちゃんと言わなければ。あの頃とは違うんだと、自分自身に言い聞かせなければ。
机に両手をついて立ち上がると、ちょうど彼女が電話を終えて戻ってきた。
「桐からだった。憶えてる? 鈴村桐。一年生のとき、小林くんも同じクラス」
「笹井さん」
彼女の言葉を遮り、名前を呼ぶ。彼女はきょとんとして首を傾げた。
「二十六歳、もうなった?」
「え、ああ、うん、六月生まれだから」
「丸十年経ったんだね」
「そうだね、若かったね」
「十年も経ってお互い大人になったし、昔の話もしたし」
「うん?」
「今度は、今現在の話をしませんか?」
言った。情けないくらい鼓動を速めながら、ついに言った。
彼女はすぐにその意味を理解したようで、右手に持った携帯電話をぎゅうっと握り締め、ゆっくり、こくりと頷いた。そして真っ直ぐに僕を見つめて「今度、ごはん食べに行こうか」と言ってくれたのだった。
馬と言われて十年、鹿と言って八年。長い年月を経て、僕たちはようやく、連絡先を交換した。改めて握った彼女の手もびっしょりと濡れていて、勿論僕の手もびしょ濡れで、顔を見合わせて笑った。
(了)