ハリネズミに贈る歌
雪で何度も止まる電車の中で、お守り代わりに握りしめていたチケットはもうくしゃくしゃだった。握りしめる手はかじかみ、しもやけで真っ赤に腫れていた。
身体の芯まで冷えきって、今にも凍えてしまいそうな中、目頭だけがじわじわと熱くなっていった。
もうあの人の歌は聞けない。名前も聞けなかった。二度と、会えない。──そう思うと、胸の奥からこみ上げてくるものがどっと涙となって溢れ出て来た。
重い足を引きずるようにして来た道を戻り、駅についたのはとっくに終電が出ているはずの時間だった。だが、不幸中の幸いとでもいえばいいのか、雪による混乱を引きずって終電にも遅れが出ていた。
もう深夜の一時になるかというのにホームはにぎやかで、大雪に見舞われながらも聖夜を満喫した様子のカップルたちが仲良く身体を寄せ合って並んでいた。その中で、私はぽつんと一人で立っていた。東京に来てからいつも学校では一人だったし、そんな状況には慣れていたはずだったのに、なぜか、このときばかりは孤独が堪えた。
ずっと俯いているのも恥ずかしくなって、ふいに、時間を確認しようと顔を上げたときだった。
『まもなく、一番線に最終電車が参ります。本日、雪のため、電車が大変遅れまして……』
アナウンスが、徐々に遠のいていった──そんな感覚だった。音が消えた。雪の解ける音さえ聞こえそうな静まり返った世界の中で、私は見つけた。
向かいの一番線のホームに、彼がいた。
ギターケースらしきものを担ぐ集団の中で、ハリネズミのように短い髪をツンツンと立てた彼が、酔っぱらっているのか、顔を赤くして笑っていた。
身体が震えた。いてもたってもいられなくなって、向かいのホームに飛んでいきたくなった。でも、そのときにはすでに、二つの光が近づいてくるのが目の端で見えていた。彼の待つ電車はもうすぐそこまで迫っていた。
間に合わない。また、間に合わないんだ、と悟った。
せめて、気づいてほしい。そう思った。
これが最後のチャンスなんだから──そんな焦りが、私を突き動かしたようだった。
喉が開いて、空気がどっと肺に入り込んで来た。それは、懐かしい感覚だった。
「おめ(あなた)の歌、うだでぐ(すごい)好ぎです!」
ホームにこだましたその声に、一番びっくりしたのは私自身だったかもしれない。
周りの目がいっせいにこちらに集まった。カップルたちが気味悪そうにじろじろ見ているのが分かった。笑い声も聞こえていた。
でも、どうでもよかった。
それよりも、彼が気づいてくれるかどうか、それだけで頭がいっぱいだった。
祈るような思いで見つめる先で、友達と話していた彼がゆっくりとこちらに振り返った。
彼は、一瞬、驚いたような顔をして──そして、笑った。
「ありがとう!」
大きく手を振り、彼は笑顔でそう言った。私の声なんか比べ物にならないくらいの大きな声で。
それが、私と彼の、最初で最後の『会話』だった。
あっという間に目の前に電車が滑り込んで来て、彼を攫っていった。
無人になった向かいのホームを見つめて、私は呆然と立ち尽くした。まるで夢の中にでもいるような気分だった。今、起きた出来事が全て、私の妄想だったんじゃないか、とさえ思えた。
ただ、喉がすごくひりひりして、周りではひそひそ話す声が聞こえて──それがなによりの証拠になった。実感した。私は彼に伝えることができたんだ、と。ずっと伝えたかった気持ちを。そして、彼はそれに答えてくれた。
どっと身体から力が抜けて、私はその場に座り込んだ。
「どすべ(どうしよう)……嬉しいじゃ」
ぽつりとそんな言葉がこぼれていた。
その日以来、頭の中のクラスメイトの笑い声は消えた。喉が締められるような感覚もなくなった。代わりに、彼の笑顔がふとした瞬間に脳裏をよぎるようになった。そのたびに、胸が締め付けられて、顔が焼けるように熱くなって、声も出せないくらいに息苦しくなった。『発作』によく似たそれが、『初恋』だったと気づいたのはもう少しあとになってから……。
身体の芯まで冷えきって、今にも凍えてしまいそうな中、目頭だけがじわじわと熱くなっていった。
もうあの人の歌は聞けない。名前も聞けなかった。二度と、会えない。──そう思うと、胸の奥からこみ上げてくるものがどっと涙となって溢れ出て来た。
重い足を引きずるようにして来た道を戻り、駅についたのはとっくに終電が出ているはずの時間だった。だが、不幸中の幸いとでもいえばいいのか、雪による混乱を引きずって終電にも遅れが出ていた。
もう深夜の一時になるかというのにホームはにぎやかで、大雪に見舞われながらも聖夜を満喫した様子のカップルたちが仲良く身体を寄せ合って並んでいた。その中で、私はぽつんと一人で立っていた。東京に来てからいつも学校では一人だったし、そんな状況には慣れていたはずだったのに、なぜか、このときばかりは孤独が堪えた。
ずっと俯いているのも恥ずかしくなって、ふいに、時間を確認しようと顔を上げたときだった。
『まもなく、一番線に最終電車が参ります。本日、雪のため、電車が大変遅れまして……』
アナウンスが、徐々に遠のいていった──そんな感覚だった。音が消えた。雪の解ける音さえ聞こえそうな静まり返った世界の中で、私は見つけた。
向かいの一番線のホームに、彼がいた。
ギターケースらしきものを担ぐ集団の中で、ハリネズミのように短い髪をツンツンと立てた彼が、酔っぱらっているのか、顔を赤くして笑っていた。
身体が震えた。いてもたってもいられなくなって、向かいのホームに飛んでいきたくなった。でも、そのときにはすでに、二つの光が近づいてくるのが目の端で見えていた。彼の待つ電車はもうすぐそこまで迫っていた。
間に合わない。また、間に合わないんだ、と悟った。
せめて、気づいてほしい。そう思った。
これが最後のチャンスなんだから──そんな焦りが、私を突き動かしたようだった。
喉が開いて、空気がどっと肺に入り込んで来た。それは、懐かしい感覚だった。
「おめ(あなた)の歌、うだでぐ(すごい)好ぎです!」
ホームにこだましたその声に、一番びっくりしたのは私自身だったかもしれない。
周りの目がいっせいにこちらに集まった。カップルたちが気味悪そうにじろじろ見ているのが分かった。笑い声も聞こえていた。
でも、どうでもよかった。
それよりも、彼が気づいてくれるかどうか、それだけで頭がいっぱいだった。
祈るような思いで見つめる先で、友達と話していた彼がゆっくりとこちらに振り返った。
彼は、一瞬、驚いたような顔をして──そして、笑った。
「ありがとう!」
大きく手を振り、彼は笑顔でそう言った。私の声なんか比べ物にならないくらいの大きな声で。
それが、私と彼の、最初で最後の『会話』だった。
あっという間に目の前に電車が滑り込んで来て、彼を攫っていった。
無人になった向かいのホームを見つめて、私は呆然と立ち尽くした。まるで夢の中にでもいるような気分だった。今、起きた出来事が全て、私の妄想だったんじゃないか、とさえ思えた。
ただ、喉がすごくひりひりして、周りではひそひそ話す声が聞こえて──それがなによりの証拠になった。実感した。私は彼に伝えることができたんだ、と。ずっと伝えたかった気持ちを。そして、彼はそれに答えてくれた。
どっと身体から力が抜けて、私はその場に座り込んだ。
「どすべ(どうしよう)……嬉しいじゃ」
ぽつりとそんな言葉がこぼれていた。
その日以来、頭の中のクラスメイトの笑い声は消えた。喉が締められるような感覚もなくなった。代わりに、彼の笑顔がふとした瞬間に脳裏をよぎるようになった。そのたびに、胸が締め付けられて、顔が焼けるように熱くなって、声も出せないくらいに息苦しくなった。『発作』によく似たそれが、『初恋』だったと気づいたのはもう少しあとになってから……。