あのころ、
第三話 兄からの頼み
「で、でも……」動揺をなんとか隠そうと、俺は言葉を搾り出す。「お前ら、ずっと付き合ってたんだろ? たしか、親父たちが離婚してすぐ……てことは、三年?」
福岡に来て、引越しも一段落し、大学生活を始めた俺のもとに舞いこんできた『吉報』。それは仁からのメール。ようやく、サキと付き合い始めた、というものだった。
当時のことを思い出し、つい、拳に力が入った。
無理だった。分かってはいたといっても、実際に突きつけられてしまうと……とてもじゃないが、受け入れられなかった。
それからだ。俺が仁や母さんとの連絡を意識的に避け始めたのは。
当然、サキともメール一つしていない。
「高校んときも、いっつも一緒で……ほぼ、付き合ってたようなものだったじゃないか。あんなに仲良かったのに、なんで?」
サキと出会ったのは俺のほうが先だった。今でもよく覚えている。あれは高校の合格発表の日──いや、だからなんだ、て話だ。先着順じゃねぇもんな。サキはサッカー部のマネージャーで、当然、サッカー部員の仁と関わることも多くて……自習室で偶然出くわすだけの俺じゃ、所詮、土俵が違った、つーか。勝負になるわけがなかったんだ。仁がサキに惚れていると気づいたときも、張り合おうとすら思わなかった。
後悔できるほどのこともしていないのに、未練だけがつのっていく。不完全燃焼した思い出は煤まみれ、有害なガスだけ溜まっちまったみたいだ。
今さら、うだうだ考えても仕方ないってのに。そんなことより、今は仁だろ。こうして、仁が目の前で落ち込んでるんだ──と、そのときになって、違和感を覚えた。なんで、仁は落ち込んでるんだ?
「まさか、フラれたのか!? お前が!?」
刺すような視線を感じて、ハッと我に返る。
恐る恐る辺りを見回すと──頬を赤らめてにやにやとしながらこちらを見つめる女子高生たち、唖然としているエプロン姿のバイトらしき女の子、怪訝そうにこちらを睨みつけている眼鏡の男──周りの視線が俺たちに集まっていた。
「はっきり言ってくれちゃったなぁ、もう」
仁の情けない声が聞こえて、今、一番、恥ずかしいのは俺ではないことに気づく。「悪い」とごまかすように苦笑した。
仁は俺の帽子を──俺がしていたように──深くかぶって、窓の外へ顔を向けていた。
「事実だから、余計に傷つくんだよね」
「……」
帽子のツバの影の下、ふっと皮肉そうに笑む唇が見えた。
言葉が出てこなかった。
仁がフラれた。信じられなかった。理由が思いつかない。仁は完璧で、いつも女子の憧れの的だった。いつだって誰かが好意の眼差しを向けていた。女子が俺に話しかけてくるときは、大体が仁に近づくためで、他は俺で『妥協』しようとする奴ばっかだった。双子でもここまで扱いが違うものか、と皆が仁を羨望の目で見つめる中、俺だけは疎ましく睨みつけていたものだ。
「仁」遠慮がちに、俺は問いかけた。「なんで、別れたんだ?」
「正しくは、『なんでフラれたのか』」
ずばり言って、仁は帽子のツバをくいっと上げた。さらりとなびく前髪の間から、刺すような視線がこちらに向けられていた。
「廉、サキに聞いてよ」
「……は?」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
口をあんぐり開け、きょとんとしていると、
「なんて言ってみたりして。冗談だよ」
仁はどこか自虐的な笑みを浮かべ、ポケットから何かを取り出し、テーブルに置いた。
「悪いんだけどさ、これ、サキに返しに行ってくれない?」
「これって……」
そっと仁が手をどけると、そこには銀色に輝く鍵が。青い手毬のキーホルダーがリンと鈴を鳴らして転がった。
ざわっと胸騒ぎがした。
「合鍵、てやつかよ?」
「そう、合鍵ってやつだよ。サキの部屋のね」ため息をつき、鍵を見つめる仁の眼差しは憂いを帯びていた。「もういらないからさ」
サキの部屋の鍵……じっとそれを見つめて、俺はごくりと生唾を飲みこんだ。
三年も、付き合ってたんだもんな。もう俺たちだって、女と手をつなぐだけで満足するような歳じゃないんだ。そりゃ、そういうことも──脳裏によぎったよからぬ画を消し去るように俺は頭を振った。
たとえ、妄想でも、他の男に抱かれてあえぐサキなんて、想像もしたくない。まして、仁の下で、なんて……。
「お前が直接返すべきだろ」平静を装って、俺は雑に言い捨てた。「つーか、俺がいきなり現れて鍵返すのってどうなんだよ? 三年半、連絡とってなかったんだぞ」
俺の声はところどころ裏返っていた。
そりゃそうだ。必死になって、それらしい理由をつけようとしているだけなんだから。本音を言えば……サキに会いたくないだけだった。
この三年半、サキを忘れようと必死だった。他の女とも付き合ってはみたけど、抱くたびにサキを思い出してダメだった。いつも、行為をしている自分とは別の自分がいるようだった。どんなに身体が興奮しようと、そいつだけは冷静で、身体(おれ)を軽蔑していた。
だからもう、いっそのこと、サキは俺の妄想が創り上げた幻だ、とかそう思いこむことにしたんだ。
そのサキに……本物の、生身のサキに会っちまったら、自分がどうなるか、想像もつかない。抑えこんできた気持ちがどうなるか……。自制できる自信がない。
仁がつらいこのときを、『チャンス』だと──そう思ってしまいそうな自分がいて、ぞっとする。
会わないのが最善だ。
「お前が行けよ」と、強い語調で促す。「明らかに未練、あんだろ」
「未練があるから、行けないんだよ」
「話せば、何か変わるかもしれねぇじゃん」
「努力はしたよ、もう」
なんか、投げやりだな。イラッとして、「足りねぇんじゃねぇの?」と半ばケンカ腰になってしまった。
「土下座でもして、泣いてすがれ、て言うの?」
仁の端整な顔立ちに冷ややかな笑みがにじんだ。
俺は「ああ、そうさ」と言ってのける。──て、俺も充分投げやりじゃねぇか。
「……」
会話が止まった。
仁はうつむき、黙りこんでしまった。
何を考えてるのか……双子の俺でも分からない。こういうときに、都合よく双子特有の『テレパシー』みたいなものが使えればいいんだろうけど。俺たちにはそういう超能力じみた繋がりはなかった。
だから、ただ、仁の言葉を待つしか出来なかった。
どれくらい、沈黙が続いただろうか。
こっちの気まずさが伝播したのか、やがて、隣の席に座っていた会社員らしき男が落ち着かない様子でトレイを持って立ち上がった。ガタガタと響く物音。それに混じって、
「頼むよ、廉」
聞き逃すところだった。幻聴かとも思った。あまりに弱々しく、疲れ果てたような声だった。とても仁のものとは思えないような……。
眉間に深い皺を刻み、俺と目を合わせようともしない。こんなに打ちひしがれた仁を初めて見た。
なんでも器用にこなしてしまう仁は、いつだって無敵な兄貴に思えた。それは誇らしくもあり、うっとうしくもあった。
そういえば、こいつが俺に頼ってきたことなんてあっただろうか。
俺はガリっと奥歯を噛み締め、膝の上に乗せた拳を握りしめた。
「鍵、返せばいいんだな」
気づけば、そう口にしていた。
「それだけだからな」
それだけだ。鍵を返すだけだ。──そう心の中で何度も自分に言い聞かせながら、俺はテーブルに置かれた鍵を手に取った。
福岡に来て、引越しも一段落し、大学生活を始めた俺のもとに舞いこんできた『吉報』。それは仁からのメール。ようやく、サキと付き合い始めた、というものだった。
当時のことを思い出し、つい、拳に力が入った。
無理だった。分かってはいたといっても、実際に突きつけられてしまうと……とてもじゃないが、受け入れられなかった。
それからだ。俺が仁や母さんとの連絡を意識的に避け始めたのは。
当然、サキともメール一つしていない。
「高校んときも、いっつも一緒で……ほぼ、付き合ってたようなものだったじゃないか。あんなに仲良かったのに、なんで?」
サキと出会ったのは俺のほうが先だった。今でもよく覚えている。あれは高校の合格発表の日──いや、だからなんだ、て話だ。先着順じゃねぇもんな。サキはサッカー部のマネージャーで、当然、サッカー部員の仁と関わることも多くて……自習室で偶然出くわすだけの俺じゃ、所詮、土俵が違った、つーか。勝負になるわけがなかったんだ。仁がサキに惚れていると気づいたときも、張り合おうとすら思わなかった。
後悔できるほどのこともしていないのに、未練だけがつのっていく。不完全燃焼した思い出は煤まみれ、有害なガスだけ溜まっちまったみたいだ。
今さら、うだうだ考えても仕方ないってのに。そんなことより、今は仁だろ。こうして、仁が目の前で落ち込んでるんだ──と、そのときになって、違和感を覚えた。なんで、仁は落ち込んでるんだ?
「まさか、フラれたのか!? お前が!?」
刺すような視線を感じて、ハッと我に返る。
恐る恐る辺りを見回すと──頬を赤らめてにやにやとしながらこちらを見つめる女子高生たち、唖然としているエプロン姿のバイトらしき女の子、怪訝そうにこちらを睨みつけている眼鏡の男──周りの視線が俺たちに集まっていた。
「はっきり言ってくれちゃったなぁ、もう」
仁の情けない声が聞こえて、今、一番、恥ずかしいのは俺ではないことに気づく。「悪い」とごまかすように苦笑した。
仁は俺の帽子を──俺がしていたように──深くかぶって、窓の外へ顔を向けていた。
「事実だから、余計に傷つくんだよね」
「……」
帽子のツバの影の下、ふっと皮肉そうに笑む唇が見えた。
言葉が出てこなかった。
仁がフラれた。信じられなかった。理由が思いつかない。仁は完璧で、いつも女子の憧れの的だった。いつだって誰かが好意の眼差しを向けていた。女子が俺に話しかけてくるときは、大体が仁に近づくためで、他は俺で『妥協』しようとする奴ばっかだった。双子でもここまで扱いが違うものか、と皆が仁を羨望の目で見つめる中、俺だけは疎ましく睨みつけていたものだ。
「仁」遠慮がちに、俺は問いかけた。「なんで、別れたんだ?」
「正しくは、『なんでフラれたのか』」
ずばり言って、仁は帽子のツバをくいっと上げた。さらりとなびく前髪の間から、刺すような視線がこちらに向けられていた。
「廉、サキに聞いてよ」
「……は?」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
口をあんぐり開け、きょとんとしていると、
「なんて言ってみたりして。冗談だよ」
仁はどこか自虐的な笑みを浮かべ、ポケットから何かを取り出し、テーブルに置いた。
「悪いんだけどさ、これ、サキに返しに行ってくれない?」
「これって……」
そっと仁が手をどけると、そこには銀色に輝く鍵が。青い手毬のキーホルダーがリンと鈴を鳴らして転がった。
ざわっと胸騒ぎがした。
「合鍵、てやつかよ?」
「そう、合鍵ってやつだよ。サキの部屋のね」ため息をつき、鍵を見つめる仁の眼差しは憂いを帯びていた。「もういらないからさ」
サキの部屋の鍵……じっとそれを見つめて、俺はごくりと生唾を飲みこんだ。
三年も、付き合ってたんだもんな。もう俺たちだって、女と手をつなぐだけで満足するような歳じゃないんだ。そりゃ、そういうことも──脳裏によぎったよからぬ画を消し去るように俺は頭を振った。
たとえ、妄想でも、他の男に抱かれてあえぐサキなんて、想像もしたくない。まして、仁の下で、なんて……。
「お前が直接返すべきだろ」平静を装って、俺は雑に言い捨てた。「つーか、俺がいきなり現れて鍵返すのってどうなんだよ? 三年半、連絡とってなかったんだぞ」
俺の声はところどころ裏返っていた。
そりゃそうだ。必死になって、それらしい理由をつけようとしているだけなんだから。本音を言えば……サキに会いたくないだけだった。
この三年半、サキを忘れようと必死だった。他の女とも付き合ってはみたけど、抱くたびにサキを思い出してダメだった。いつも、行為をしている自分とは別の自分がいるようだった。どんなに身体が興奮しようと、そいつだけは冷静で、身体(おれ)を軽蔑していた。
だからもう、いっそのこと、サキは俺の妄想が創り上げた幻だ、とかそう思いこむことにしたんだ。
そのサキに……本物の、生身のサキに会っちまったら、自分がどうなるか、想像もつかない。抑えこんできた気持ちがどうなるか……。自制できる自信がない。
仁がつらいこのときを、『チャンス』だと──そう思ってしまいそうな自分がいて、ぞっとする。
会わないのが最善だ。
「お前が行けよ」と、強い語調で促す。「明らかに未練、あんだろ」
「未練があるから、行けないんだよ」
「話せば、何か変わるかもしれねぇじゃん」
「努力はしたよ、もう」
なんか、投げやりだな。イラッとして、「足りねぇんじゃねぇの?」と半ばケンカ腰になってしまった。
「土下座でもして、泣いてすがれ、て言うの?」
仁の端整な顔立ちに冷ややかな笑みがにじんだ。
俺は「ああ、そうさ」と言ってのける。──て、俺も充分投げやりじゃねぇか。
「……」
会話が止まった。
仁はうつむき、黙りこんでしまった。
何を考えてるのか……双子の俺でも分からない。こういうときに、都合よく双子特有の『テレパシー』みたいなものが使えればいいんだろうけど。俺たちにはそういう超能力じみた繋がりはなかった。
だから、ただ、仁の言葉を待つしか出来なかった。
どれくらい、沈黙が続いただろうか。
こっちの気まずさが伝播したのか、やがて、隣の席に座っていた会社員らしき男が落ち着かない様子でトレイを持って立ち上がった。ガタガタと響く物音。それに混じって、
「頼むよ、廉」
聞き逃すところだった。幻聴かとも思った。あまりに弱々しく、疲れ果てたような声だった。とても仁のものとは思えないような……。
眉間に深い皺を刻み、俺と目を合わせようともしない。こんなに打ちひしがれた仁を初めて見た。
なんでも器用にこなしてしまう仁は、いつだって無敵な兄貴に思えた。それは誇らしくもあり、うっとうしくもあった。
そういえば、こいつが俺に頼ってきたことなんてあっただろうか。
俺はガリっと奥歯を噛み締め、膝の上に乗せた拳を握りしめた。
「鍵、返せばいいんだな」
気づけば、そう口にしていた。
「それだけだからな」
それだけだ。鍵を返すだけだ。──そう心の中で何度も自分に言い聞かせながら、俺はテーブルに置かれた鍵を手に取った。