あのころ、
第五話 名前
俺は何も答えられなかった。
とりあえず、久しぶり、とでも返せばいいのに、言葉が出てこなかった。
そんな言葉で片付けられるほど、この三年半、積もり積もった俺の気持ちは軽くはなく、かといって、何か他に言いたいことが見つかるわけでもなかった。ただ、彼女を見つめることしかできなかった。
そんな俺に、「あがっていく?」と彼女は遠慮がちに微笑んだ。
その瞬間、脳天から電流が走ったようだった。ようやく、全身の神経がつながって、身体の自由が戻ったようだった。
俺は手に持っていた鍵をポケットに詰め込み、慌てて足を踏み出した。
やっぱり、間違いだった、と気づいた。彼女の誘いに、一瞬でも心が揺れた。鍵を返してすんなり帰れるほど、まだ心の整理がついていないのは明らかだった。
「悪い」
それだけ言って、俺は彼女の横を通り過ぎ、階段へと急いだ。ふんわりと漂った彼女の香りはあのころのままで、誘い出されそうになる想いを押し込めるのに必死だった。──と、そんな俺を何かがぐっと引き止めた。背後から俺のシャツを引っ張る力を感じた。強い力じゃない。簡単に振り切れそうなか弱い力だった。
それでも、俺は足を止めた。「ごめんね」と聞こえた彼女の声が、泣いているようだったから。
「なんで、謝──」
「ごめんね、仁」
さあっと血の気が引いて、一瞬で冷静さを取り戻した。さっきまで爆発しそうなほどに暴れていた心臓が凍りついたようだった。
その名前で呼ばれるのは何年ぶりだろう。呆れとか落胆とかを通り越して、心底懐かしく思った。
仁──全く同じ顔をした双子の兄。何度、間違われたことか。本当の名前よりも、その名前で呼ばれたことのほうが多いんじゃないか、てくらい。でも、彼女だけは、間違ったことはなかった。彼女だけは、俺をその名で呼ぶことはなかった。三年半前までは……。
ぐっと拳に力が入った。
悔しいとか、腹が立ったとかそういうんじゃない。恥ずかしくてたまらなかった。
心に居座る彼女を消そうともがき苦しみ、叶うはずのない妄想の中で溺れていた三年半。その間に、彼女の中で俺はとっくに消えていたんだ。
もう俺に名乗る義理さえ許されていないのだ、と悟った。
今、彼女の目の前にいるのは俺じゃない。彼女の目に映っているのは──彼女がそのか細い手で必死にしがみついている背中は、俺のじゃない。亡霊だ。今の俺は彼女にとって、仁の亡霊でしかないんだ。
それが分かったら、どうでもよくなった。全てがバカらしくなった。いじけたように仁と距離を取って、過去に背中を向けた気になっていた三年半。サキに出会い、サキを想い続けた日々。──その全てがくだらなくなった。
惨めだ。
なんで、俺はこんなところに立っているんだ。なんで、のこのこ東京に帰って来ちまったんだ。なんで、仁の頼みを素直に聞いちまったんだ。こうなることは分かっていただろうに。三年半前、彼女が仁を選んだときに、思い知ったはずなのに。それとも、やっぱり、どこかで期待していたのか。いまさら、サキとどうにかなれるとでも──?
「もう、行くわ」
絞り出した声は、今にも消え入りそうな頼りないものになっていた。
その場から逃げ出すように、サキの手を無理やり引き剥がすように、足を踏み出した。
「ずっと、好きだったの」
ふいに、助けでも求めているような弱々しい声でサキがつぶやいた。聞いているこっちが胸が痛くほど、寂しそうな……。
無視して、置いていけるはずもなかった。
ポケットにつっこんだ手が合鍵を強く握りしめていた。
──正しくは、『なんでフラれたのか』。廉、サキに聞いてよ。
いまごろになって、双子のテレパシーでも働き出したのだろうか。タイミングよく、仁の言葉が脳裏をよぎった。
自然と苦笑がこぼれる。
ヤケクソといえばいいのか、開き直りといえばいいのか。それとも、ただの好奇心か。せめて、亡霊としての役目ぐらい果たしてやろうじゃないか。そんな気になった。
「なぁ、サキ。なんで、『俺』をフッたんだよ?」
静まりかえった外廊下に、俺の低い声が響いた。我ながら仁によく似た声だと思った。
「まだ好きだからだよ。君のこと」
ややあってから、サキは噛み締めるように答えた。
「答えに……なってねぇよ」
「なってるよ」
「なってねぇよ。好きだからフるってどういうことだよ?」
「高校のときから、好きだったんだよ」
わざわざ言われなくても、知ってるよ──そう言ってやりたかった。いつも二人は一緒に居た。いつも楽しそうに何か話してた。俺はそれを遠目で見てるだけだった。割ってはいるような無粋なことはしたくはなかった。俺は仁の気持ちに気づいていたから。
「からかってんのか?」人の気も知らないで──腹立たしくなって、俺は鼻で笑った。「答えになってねぇっつーの」
「からかってないよ」
「そんなんで納得できるかよ」
「でも仁は納得したよ。──廉ちゃん」
「!」
心臓に思いっきり杭を打たれたような衝撃が走った。
俺は目を見開き、硬直した。
夏の湿った生暖かい風が通り過ぎていった。
「は……」
やっと出てきたのは、なんとも気の抜けた声だった。
とりあえず、久しぶり、とでも返せばいいのに、言葉が出てこなかった。
そんな言葉で片付けられるほど、この三年半、積もり積もった俺の気持ちは軽くはなく、かといって、何か他に言いたいことが見つかるわけでもなかった。ただ、彼女を見つめることしかできなかった。
そんな俺に、「あがっていく?」と彼女は遠慮がちに微笑んだ。
その瞬間、脳天から電流が走ったようだった。ようやく、全身の神経がつながって、身体の自由が戻ったようだった。
俺は手に持っていた鍵をポケットに詰め込み、慌てて足を踏み出した。
やっぱり、間違いだった、と気づいた。彼女の誘いに、一瞬でも心が揺れた。鍵を返してすんなり帰れるほど、まだ心の整理がついていないのは明らかだった。
「悪い」
それだけ言って、俺は彼女の横を通り過ぎ、階段へと急いだ。ふんわりと漂った彼女の香りはあのころのままで、誘い出されそうになる想いを押し込めるのに必死だった。──と、そんな俺を何かがぐっと引き止めた。背後から俺のシャツを引っ張る力を感じた。強い力じゃない。簡単に振り切れそうなか弱い力だった。
それでも、俺は足を止めた。「ごめんね」と聞こえた彼女の声が、泣いているようだったから。
「なんで、謝──」
「ごめんね、仁」
さあっと血の気が引いて、一瞬で冷静さを取り戻した。さっきまで爆発しそうなほどに暴れていた心臓が凍りついたようだった。
その名前で呼ばれるのは何年ぶりだろう。呆れとか落胆とかを通り越して、心底懐かしく思った。
仁──全く同じ顔をした双子の兄。何度、間違われたことか。本当の名前よりも、その名前で呼ばれたことのほうが多いんじゃないか、てくらい。でも、彼女だけは、間違ったことはなかった。彼女だけは、俺をその名で呼ぶことはなかった。三年半前までは……。
ぐっと拳に力が入った。
悔しいとか、腹が立ったとかそういうんじゃない。恥ずかしくてたまらなかった。
心に居座る彼女を消そうともがき苦しみ、叶うはずのない妄想の中で溺れていた三年半。その間に、彼女の中で俺はとっくに消えていたんだ。
もう俺に名乗る義理さえ許されていないのだ、と悟った。
今、彼女の目の前にいるのは俺じゃない。彼女の目に映っているのは──彼女がそのか細い手で必死にしがみついている背中は、俺のじゃない。亡霊だ。今の俺は彼女にとって、仁の亡霊でしかないんだ。
それが分かったら、どうでもよくなった。全てがバカらしくなった。いじけたように仁と距離を取って、過去に背中を向けた気になっていた三年半。サキに出会い、サキを想い続けた日々。──その全てがくだらなくなった。
惨めだ。
なんで、俺はこんなところに立っているんだ。なんで、のこのこ東京に帰って来ちまったんだ。なんで、仁の頼みを素直に聞いちまったんだ。こうなることは分かっていただろうに。三年半前、彼女が仁を選んだときに、思い知ったはずなのに。それとも、やっぱり、どこかで期待していたのか。いまさら、サキとどうにかなれるとでも──?
「もう、行くわ」
絞り出した声は、今にも消え入りそうな頼りないものになっていた。
その場から逃げ出すように、サキの手を無理やり引き剥がすように、足を踏み出した。
「ずっと、好きだったの」
ふいに、助けでも求めているような弱々しい声でサキがつぶやいた。聞いているこっちが胸が痛くほど、寂しそうな……。
無視して、置いていけるはずもなかった。
ポケットにつっこんだ手が合鍵を強く握りしめていた。
──正しくは、『なんでフラれたのか』。廉、サキに聞いてよ。
いまごろになって、双子のテレパシーでも働き出したのだろうか。タイミングよく、仁の言葉が脳裏をよぎった。
自然と苦笑がこぼれる。
ヤケクソといえばいいのか、開き直りといえばいいのか。それとも、ただの好奇心か。せめて、亡霊としての役目ぐらい果たしてやろうじゃないか。そんな気になった。
「なぁ、サキ。なんで、『俺』をフッたんだよ?」
静まりかえった外廊下に、俺の低い声が響いた。我ながら仁によく似た声だと思った。
「まだ好きだからだよ。君のこと」
ややあってから、サキは噛み締めるように答えた。
「答えに……なってねぇよ」
「なってるよ」
「なってねぇよ。好きだからフるってどういうことだよ?」
「高校のときから、好きだったんだよ」
わざわざ言われなくても、知ってるよ──そう言ってやりたかった。いつも二人は一緒に居た。いつも楽しそうに何か話してた。俺はそれを遠目で見てるだけだった。割ってはいるような無粋なことはしたくはなかった。俺は仁の気持ちに気づいていたから。
「からかってんのか?」人の気も知らないで──腹立たしくなって、俺は鼻で笑った。「答えになってねぇっつーの」
「からかってないよ」
「そんなんで納得できるかよ」
「でも仁は納得したよ。──廉ちゃん」
「!」
心臓に思いっきり杭を打たれたような衝撃が走った。
俺は目を見開き、硬直した。
夏の湿った生暖かい風が通り過ぎていった。
「は……」
やっと出てきたのは、なんとも気の抜けた声だった。