あのころ、
第七話 昔の話
 強い風が吹きこんできた。雨の気配を感じさせる生ぬるい風に、カーテンがざわめいた。

 「雨、降りそうだね」ぽつりとサキがつぶやいた。「エアコン、あんまりつけたくないんだ。空気悪くなるじゃない?」

 俺はつい鼻で笑っていた。

 「これ以上、悪くなるかよ」
 「……そう、だね」


 思い出話にも花が咲かず、時間だけが過ぎていく。
 胸はときめかず、心臓はすっかりやさぐれてる。
 大切に取っておいたあのころの想いが腐っていく。
 彼女を想い続けた三年半があっという間に煙になって消えていく。残ったのは、歳を取った自分だけ。
 疲労感と虚しさが押し寄せる。
 俺は何を期待してたんだろう。いったい、何を求めていたんだ。もう幻のようなあのころに、いつまでも心だけ居座って……三年半も、何をしていたんだ。


 「こんなつもりじゃなかったんだけどな」

 サキが疲れた声で漏らした。

 「じゃあ、どんなつもりだったんだよ」ポケットの中でぐっと握りこんだ手の平に鍵が食い込んだ。「いまさら、こんな話を聞かせて……。俺が喜ぶとでも思ったのかよ。じゃあ付き合おう、なんて言い出すとでも思ったのか。何がしたいんだよ、お前?」 
 「本当だね」と、サキは力なく答えた。「私、どんなつもりで廉ちゃんにこんな話をしたんだろ」

 頭に一気に血がのぼった。かあっと胃が焼けるようだった。

 「分かってんのか!? 仁はお前にずっと惚れてて、今だって──」

 押し寄せる感情のまま、勢いよく振り返った俺は、思わぬものを目にして言葉を失った。
 俺の怒号は余韻も残さず、ふわりとどこかに消えた。
 ベッドに座る彼女はうなだれ、悔しそうに唇を噛み締めながら、声も出さずに泣いていた。

 「サキ……」

 いつから、泣いていたんだろう。
 ぽろぽろ雫をこぼすその瞳はもう俺を見てはいなかった。その視線の先を追おうとは思わなかった。
 そういえば……この部屋には、どこを見てもあいつの姿がある。
 怒りが嘘のように消えていた。代わりに、ある『確信』が生まれる。
 俺はそっと彼女に歩み寄った。躊躇いつつも彼女の隣に腰を下ろし、じっとその横顔を見つめた。

 「俺からの連絡を待ち続けるのにも疲れて……で、どうしたんだ?」

 たどたどしくも努めて優しく訊ねると、サキがびくんと震えた。揺れる瞳がやけに魅力的に見えた。
 長く伸びたまつ毛がそっと下がる。閉じられた瞼に追い出された雫が頬を伝って落ちていった。

 「仁が言ったの。廉の代わりでいいから付き合ってくれ、て」
 「え……」

 俺はぎょっと目を見開き、唖然とした。
 あいつから……言い出したのか?

 「バカでしょう。そんなこと言い出す仁も。その言葉に甘えちゃった私も」

 サキはしなやかな指先で涙を拭い、儚げに笑んだ。

 「何年付き合っても、その言葉が呪いみたいに付きまとうんだよ。いつまでたっても、お互い疑い続けちゃって。
 私はずっと、本当に仁が好きなのか、自信がもてなくて……。仁は仁で、最後までは──その……抱けない、て言うの。私の気持ちがちゃんと自分に向くまで待つ、て」
 「最後までって……」

 一瞬、想像しそうになって、慌ててサキから目をそらした。そして、三年もよく我慢してたな、と素直に感心してしまった。こんなところで、また『兄貴』に負かされた気分になるとは。

 「でも、どうやってそんなの分かる?」突然、熱っぽくサキが言った。「いつまで待たせればいいのかなんて、私にだって分かんないよ」

 初めて聞くサキの苛立った声に、思い出したように俺は視線を戻した。

 「廉ちゃんはずっと遠くにいるはずなのに、仁と一緒にいるとどうしても廉ちゃんがそばにいるように感じちゃう。いつまで経っても、あのときの気持ちを心のどこかで感じちゃう。忘れられなくて、気になって……結局、三年も過ぎちゃってた」

 サキは両手で顔を覆った。その震える肩に触れようと手を伸ばし──結局、俺はぎこちなく自分の頭をかいた。 

 「もう限界だと思ったの。だって……三年だよ。きっと、私はまだ廉ちゃんが好きなんだ、て思った。仁だって、いつもどこかつらそうだったし、別れたほうがお互いのためだと思った。だから、言ったの。別れよう、て」

 何度も何度も涙をぬぐうせいで、サキの目元は腫れていた。

 「なのに、なんでだろ。なんで……やっと廉ちゃんに会えたのに、なんで、私は──」

 俺は思い出していた。

 ──ごめんね、仁。

 あのせつない声。あのとき感じた懐かしい痛み。

 「本気で、仁だと思いたかったんだな。からかったんじゃなくて」

 やけに落ち着いた声でそう言っていた。
 サキはハッとして、申し訳なさそうにうつむいた。さらりと黒髪が流れ落ち、その横顔を隠す。こくりと小さく頷いたのが分かった。
 俺は苦笑まじりにため息を漏らす。

 「思い返せば……て感じだけど、分かるさ」

 そうだった。こんな感じだった。忘れかけていた。しばらく味わっていなかったから。

 「何年、あいつの双子やってると思ってんだ」

 そう、これだ。仁と双子だということを思い知らされる瞬間。

 「……ごめんなさい」 
 「だから、俺に謝るなよ。俺は仁じゃねぇって」
 「うん。ごめん……廉ちゃん」
 「……」

 泣きじゃくるサキがひどく憐れに思えた。俺なんかを想い続けて、仁を──あんなにいい奴を失っちまって。大損じゃねぇか。
 両手を後ろにつき、天井を振り仰いだ。

 「バカじゃねぇの。ほんっと」

 呆れ返ったのか。疲れたのか。自分でもよく分からねぇけど、なんとなく笑っていた。 

 「三年半もなにしてんだよ」

 サキに言っているようで……それはたぶん、独り言だった。
 一応、面と向かってフラれたことになるんだろうけど、嫌な気分ではなかった。爽快感さえ覚えて、こんなものか、と気が抜けた。

 「なぁ、サキ」

 あれから、三年半か。もう……そんなに経ってたんだな。

 「俺もお前のこと好きだったよ」

 サキの嗚咽がぴたりと止まった。視線を感じたが、俺は天井を見つめたまま振り向かなかった。

 「昔の話だけどな」

 しばらく沈黙が続き、「そう」とサキが静かにつぶやくのが聞こえた。

 「ありがと。ちょっと、報われた気分」
 「……ああ」 

 俺もだ。 

   *   *   *

 曖昧にした想いは、時とともに美しく昇華されるのかもしれない。
 あのころ、何もかも純粋で不完全で美しかった。
 あそこにはもう戻れないのだ、とそう分かっているからこそ、心が引き寄せられてしまうのかもしれない。
 ぼんやりとした夢のような世界に想いを馳せ、目にも見えない不確かなものに囚われ、気づけば、ただ歳を取っている。あたりはさま変わりし、自分を置いて世界が動いていたことを悟る。
 気分は浦島太郎か。
 じゃあ、このドアは玉手箱みたいなもんだったのかもしれない。──そんなことを考えながら、俺は閉じていくドアを見つめていた。
 結局、サキを慰めることもできず、俺は部屋をあとにすることにした。長居する意味もない。

 「さて……」

 俺はわざとらしくひとりごちて、おもむろにポケットから手を取り出した。ずっと握り続けていた拳を開くと、鍵についた小さな手毬のキーホルダーがリンと音を立てて指の間から転がり落ちた。
 仁のやつ。昔はいくらねだっても、家の鍵を俺に譲ることなんて無かったってのに。

 ──でも仁は納得したよ。廉ちゃん。だから、こうして廉ちゃんがここにいる。違う?

 今なら、サキのあの言葉の意味が理解できる。

 ──悪いんだけどさ、これ、サキに返しに行ってくれない?

 初めての仁の『頼みごと』を思い出し、俺はどうしようもない情けなさとやりきれなさに襲われた。

 「ほんと、かなわねぇな」

 たった数分の違いだ、てのに……いつだって、あいつは兄貴面するんだ。
 ひどい脱力感に見舞われて、俺は力なく微笑んでいた。
< 8 / 11 >

この作品をシェア

pagetop