ダイコク
モリヒトが訪ねて来た後に、ウサギがやって来た。
ウサギは、おずおずとヤカミヒメに鏡を差し出した。
鏡に映ったのは、、すっかり大人になったヤチホコであった。
ウサギは、相変わらず言葉を話せない。
ヤカミヒメは、言った。
「ウサギ、ヤチホコを私から隠さなければならない。こんなことしてはいけないわ。」
ウサギにはよく分からなかった。
ヤカミヒメがヤチホコに一途な想いを寄せていることは、隠しようもなかった。何が二人の邪魔になるというのだろう。
そんなことよりも、二人の気持ちが通じているうちに、ことを進めた方が良いのではないかとさえ、思えた。
ヤチホコの兄者たちが一筋縄では行かないことは、ウサギも知っていた。だが、、、ヤチホコのお父様は、こうして、ヤカミヒメに贈り物を下さるではないか。
野心があるからではなかろうか。
息子の一人をヤカミヒメと結びつけ、因幡の国をてに入れたいとの、野心があるからではなかろうか。
ヤカミヒメには話さなかったが、実は、今日、海岸でひと悶着あった。

ウサギは、ヤチホコと筆談していたが、アタリの気配に気がついて、逃げ去ろうとした。
兄弟たちと関わって、もめ事を起こしてはならない。
ウサギは、ヤチホコからは逃れたが、アタリからは逃れられなかった。
ヤチホコからは見えないもの影に追い込まれ、アタリはウサギの前に立ちはだかって聞いた。
「お前、ヤチホコの女人か」
アタリは、近くに寄って、初めて、ウサギをよく見た。
アタリにとっては、ヤチホコをからかうついでのいたずら心だったが、ウサギは男の好奇心を煽る女だった。
(異形の者か)
ウサギは、ウサギは、可哀想に、震えが止まらず、ただただ首を横にふるばかり
アタリは、ウサギを脅してしゃべらそうとした。剣を抜いて、ウサギの顔のそばに降り下ろした。
頬に小さな傷ができ、真っ白な肌に、あまりに不自然に赤い雫が垂れた。
(あの目の色は、血の色か)
「お前、いったい、ヤチホコと何をしていた??」
アタリには、ウサギが、女とか女人とかそういう軽々しいものかどうかもよく分からなくなり、少し混乱してうろたえながら怒鳴った。
ウサギは、何とかアタリの脇をすり抜けようとしたが、アタリに捕まり、後ろから羽交い締めにされた。
震えるウサギを胸に捕まえると、アタリは少し落ち着いた。
異形の者ではあったが、、胸に豊かなふくらみが二つ、心臓が早鐘のようになり、男を恐れて震えていた。
そして、何よりも、頬から流れた赤い血がアタリの脳裏に焼き付いた。
胸をまさぐった。
好奇心の赴くままに、脚を割りそこに手を這わせると、女陰が震えた。
アタリは、ほくそ笑んだ。
(異形の者だが、女だ。。)
この場でどうこうしてやろうかとも思ったが、分からないことばかりで気味が悪くもあった。
この女、何者だ。。
アタリは、ウサギを砂の上に放り投げて、「お前、名前はなんだ。どこから来たのだ」
アタリは、ウサギが口をきけないことを知らなかった。怯えてあわをくっているのだろうとしか考えなかった。
(脅しすぎても話せまい。)
アタリは、剣の鞘に納め、ウサギを見下ろした。
「俺は多分、ヤチホコを今すぐにでも殺すこともできる。」
「お前が話さなければ、ヤチホコに尋ねることになろう。ヤチホコが正直に話さなければ、俺は今よりもっといらいらすることになる。」
「お前の名前は何だ?どこから来たのだ。」
ウサギは、口をしっかりとつぐんだまま、海の向こうを指さした。アタリは、海を見た。隠岐の島。
その隙に、ウサギは、消えるようにいなくなった。
ウサギも神通力の持ち主なら、アタリもまた神通力の持ち主だ。
追いかけようとすれば追いかけることもできただろうが、アタリは、もう少しで思い出せそうな記憶を必死にたどり始めた。
そして、、思い当たった。
ヤカミヒメの侍女が話していた。
ヤカミヒメは、隠岐の島のウサギをそばに置いている。
隠岐の島のウサギ。
隠岐の島のウサギ。
ただの動物だと思うておったが、異形の者であった。
ヤカミヒメのウサギとヤチホコが、いったい、どのように結び付くのか。。

父親がヤカミヒメに贈り物を送り続けていることは、アタリも知っていた。モリヒトが使いであることも。
始めは、父親がヤカミヒメを欲しがっているのだと思った。あんな赤子のような者にまでと、少々父親に呆れていたが、、モリヒトを使いに遣ることが気になって、事情を探ろうとした。
どうやら、アタリが考えていたような単純な事情ではないらしい。
モリヒトに代わり、自分が使いに行きたいと願い出たこともあった。
因幡の国の秘密を知りたい。
しかし、父親は、アタリに剣を投げわたして言った。
「アタリには、これを授けよう。使い走りなど、モリヒトに任せておけばよい」
アタリは、その場では、父親の言葉に自尊心をくすぐられた。
けれども、後になって、父親とモリヒトが、何か隠しているという思いを消せなくなった。
ヤカミヒメとは、何者なのだ?世間的にはこうだ。「ヤカミヒメを手に入れたものは、因幡の国と、その近隣の国々を手に入れる。」
父親は、自分をのけ者にして、モリヒトに何かつかませようとしているのか??

ウサギが帰った後、ヤカミヒメは疲れはてて眠り込んだ。
ウサギの頬には傷があり、髪も不自然に切り落とされていた。
ウサギには、けして海岸に出ないように言いつけたが、、ウサギが自分とは違う使命に捕らわれていることも、ヤカミヒメは知っていた。
ウサギは、ヤカミヒメに、普通の女としての幸せをつかんでほしいと願っているのだ。ヤカミヒメの為にすることなのだが、ヤカミヒメは困惑していた。
ヤカミヒメは、先を見通していた。
(縁談などと言うのもおこがましい。)
(何故、いつもいつも、皆、私が言うのと逆のことばかりするのかしら。)
ヤカミヒメは、ヤチホコの父親に従う考えだった。ヤチホコの父親の贈り物の意味も、知っていた。ヤカミヒメは、自ら進んでヤチホコの父親に封印されようと努めて来たのだ。

けれども、ヤカミヒメは、夢を見た。
ヤカミヒメは、もう、自分の胸の痛みの原因も知っている。
こういうのを、「恋しい」という。恋しくて。恋しくて。
ヤチホコのまじないは、ヤカミヒメの女心を掻き立てた。
ヤチホコは、ただ、純粋に、自分を心配してくれた。
何とか痛みを癒そうと胸に触れた優しい手、髪に触れる唇と頬。今でも、時間が止まったように身体に感触が残る。すっかり変わり果ててしまったのは、自分の方だ。ヤカミヒメの女は、疼いた。
ヤカミヒメは、、現実には、まだ、誰にも触れさせたことはない。 夢の中で、ヤカミヒメは、ヤチホコに打ち明けた。何度も、何度も、、
「ヤチホコ、胸が痛い」と、ヒメは夢の中で喘いだ。

遠くから、声が聞こえた。下卑た声。
「おい、お前、あいつに何回抱かれた」
ヤカミヒメは、涙を流した。
「何度も、何度も、何度も、」
(夢の中では)
「何度も、何度も、気がつかれたくなく思います。あさましい女だと、気がつかれたくなく思います。」

不意に、目の前に、男の顔が現れた。端正だが、ヤチホコよりも冷たく、荒々しい顔立ち。
ヤカミヒメは、覚醒した。
ソネミが、ヤカミヒメの寝台の脇に腰掛け、蔑むようにヤカミヒメの顔を見下ろしていた。
ヤカミヒメは、震え上がった。

「心配することはない。今日は。」
ソネミは、ヤカミヒメに言った。
「兄弟たちが騒ぐから、どんな女かと思うたら、まだまだ子どもだ。」
ソネミは、笑った。そして、立ち上がった。
「心配することはない。私の妻の腹にはやや子がおる。愛でたいときだから、私は要らない殺生をする気はない。今日は、ただ、兄弟たちのために知りたいことがあっただけだ。安心して眠るがよい。」
ソネミは言った。
ソネミは、好奇心から、ヤカミヒメに会いに来た。ヤカミヒメというのが、父親や兄弟たちを手玉にとり悩ませるあやかしなのか、それとも、ただの人間なのか。
ソネミは、ヤカミヒメの夢を覗いて、ヤカミヒメが、ただの恋する小娘だと知った。
しかし、ヤカミヒメがただの力ない小娘と分かり、すっかり安心した訳でもなかった。
(可哀想に )などと思う自分に驚く。
アタリは、ヤカミヒメに優しくしてやろうなどとは思わないだろう。

ヤカミヒメだか何だか知らないが、あのモリヒトに女人が惚れこんでいるというのは、ソネミにしても、面白くなかった。
ヤカミヒメの正体は小娘だが、ヤカミヒメを手に入れたものは因幡の国を手に入れるのだ。
(そんなややこしいものがくっついてなければ、ヤカミヒメは幸せになれたかもしれない。)
ソネミは、モリヒトが、父親のように女を捨てる度胸もあまた持つ度胸もないことを、初めて評価した。つまらないもの同士、幸せになったやもしれぬ。
そして、一人苦笑した。
(あんな男のどこが良いのだ。)
面白くもない。
ソネミは、川へ行き、身体の隅々をくまなく清め、それから自分の場所へと帰って行った。
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