誰よりも大切なひとだから。



喋る機会を伺っている間に、私たちは下駄箱の前まで来てしまっていた。


長野くんは電車通学。
私は自転車通学で、駅とは全く反対に家があるから、帰りは一緒に帰れない。


喋るなら、今のうちだ。
ほら、いけ!彩芽!!


心の叫びは露にも出さず、私は靴を履いた。


だけど、紐靴だったから、履くのに手間取っていると、彼が私の横を通って帰る気配がした。


あ、行っちゃう!


心の声が一段と高い声で叫んだときだ。


「おつかれさまー」


優しい、優しい彼の声が、頭の上から降ってきた。


慌てて顔を上げると、微笑んだきみが立っている。


「え、い、あ、お、おつかれ、さま……」


あいうえおの発音の練習でもしているのかと、ツッコみたくなるような返事を返すと、長野くんが可笑しそうに、更に目を細め、唇の端を持ち上げた。


満足そうに頷くと、彼は私に背中を向け、去っていった。


まさか、最後に彼からそんな言葉を貰うとは予想しておらず、呆けた顔で私はその場にしばし立ち尽くす。


"おつかれさま"


たった6文字があったかった。


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