欲しがりなくちびる
婚約者の暢とは、朔が店長兼エリアマネージャーに昇格した頃に付き合い始めて約1年半が過ぎていた。

土日休みの彼とは会える日も限られていたというのに、久し振りのデートでプロポーズされた時は正直驚いてしまった。けれども、それを上回る感激の方が大きくて、気付けば瞼に歓喜の涙を浮かべていた。

何でも言うことを聞いてくれて、いつもさり気なく気を遣ってくれる。自分には勿体無いくらいの人で、何にもない私とどうして一緒にいてくれるのだろう、と何度不思議に思っただろう。

ふいに、左薬指にはめたダイヤのパヴェリングがきらりと輝く。

1ヶ月前に暢が贈ってくれた婚約指輪は、それぞれのダイヤは小さいけれどカットのクラスが最高の逸品で、まるで幸せな未来を予感させるように、ほんの僅かな光りでも瞬く星のように反射する。

――きっと、人生の中で、今が一番幸せな時なのかもしれない。

朔は、愛でるように目を細めてリングをそっと撫でた。

二人が暮らすマンションは、少し広めの1LDKだ。玄関を入ると、廊下の突き当たりにはリビングとキッチンに繋がるドアがある。ガラス戸から漏れる光を頼りに電気を点けず廊下を進むが、部屋に暢はいなかった。代わりに、テレビがつけっぱなしになっている。

「暢ー?」

急な出張に対応できるようにと、基礎化粧品からリキッドファンデーションまで化粧道具一式が揃った大きな化粧ポーチに、ヘアアイロン、ヘアスプレー、そして一日分の着替えや会議の資料ファイルが入った中身だけで軽く2キロは超えているだろう重い鞄をソファの縁に立て掛けると、リビングの隣りにある寝室のドアを開けた。



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