欲しがりなくちびる
「違うって……、この状況でどう説明するの?」 

僅かな望みを持ちながらも想像通りの光景を目の当たりにした今、自分でも不思議なほど冷静だった。

朔の心の奥底に湛えた深い湖は波紋一つなく、そこに落ちた一枚の葉がただ静かに流れに身を任せている。よくよく耳を澄ませば、そこで水鳥が羽を休める音さえ聞こえそうなほど心は穏やかだ。

「ごめん。今日はそのベッドで眠れる自信ない。今夜は友達の家に泊まるから」

リビングへと踵を返す直前視界に入った暢は、まるで雨の中を蹲る捨て犬のように追い縋るような眼をしていた。そこには、ただ慈悲を求める純粋という名の色だけが光っているようにも見えた。
 
重い鞄を再び右肩に掛け、朔は今来た道を戻る。

あの部屋は元はと言えば、彼女が借りていたものだった。バブル期に建てた分譲マンションでだいぶ築年数が経っていたが、時代背景もあり内装はこじゃれた雰囲気で立地条件がいい割に家賃が手頃だった。運良く空きが出たところを知人の紹介で契約することができた、小さいながらもお気に入りの城だった。
< 4 / 172 >

この作品をシェア

pagetop