緑の指を持つ君と
「瀬波、どうした?あれから」
立ち止まった渋沢教授が、聞いてくる。
ざわついた廊下で問い掛けられたので、一瞬言葉に詰まったものの、無難に答えをだす。
「蛍ですか?大丈夫ですよ」
がしがしっと薄くなりつつある頭をかいて、教授が苛立ちを見せる。
「余裕だな、瀬波は。なんかないのか困ることとかは」
「特には」
胸の隅に、ちらりと彼女の栗色の髪が揺れた。
「お前は落ちつきすぎなんだ。頼ったり甘えたり出来んのだろ」
「別に困っていませんから」
教授はじっと僕を見た。
「俺はな、これでも結構な数の学生を送り出してきた。だからお前が隠したいものも想像がつく」
白衣のポケットに手を突っ込こんだまま、ぺたんとサンダルを履いた足を交差させた。
「なんでもかんでも隠すのは止めろ」
とんとんと自分の胸を指す。
「俺の大事なナナフシを隠すんじゃねぇ。俺ぁ見られたって困らない」
苦笑いが浮かぶ。確かに研究室を最後に出て施錠する前に、出ている標本はみな片付けている。
「散らかっていたから、片付けただけです」
ぼりぼり首の後ろをかきながら、教授が答える。
「見たくねぇの?コレクションてものは、手に取って眺めて飾っておく物じゃないのか?」
「見ますよ、もちろん。でも片付けますけれど」
「かーーーっお前、わかってないねぇ。常に視界の隅にあっていい物だろう」
渋沢教授は、ばりばりと頭をかく。ああ髪に負担にならないだろうか。薄くなってきた頭頂部を掻きむしる。
「コレクター全員がそうとは限りません。それに教授は研究対象でしょう」
「愛だよ、Love 見たいとか触りたいとか普通だろ」
彼女の面影が浮かんだ。
「お前はなぁ、甘ちゃんなんだよ。こんなしょぼくれた俺でさえ嫁さんがいるっての!ウジウジしてんなよ」
「奥様は教授のことをなんて? 」
ほうっと大きく息をつく。
「そんな虫どこがいいのかわからないだとよ」
顔に笑いが浮かぶ。
「だけどなぁ…あいつは俺を愛してる。俺もそうだ。人間なんて相手の全てを受け入れることなんてできない。ただ許せるかどうかなんじゃないのか」
言いたいだけ言って、教授はくるりと背を向けた。
「なんかあったら言え。相談に乗る」
「…ありがとうございます」
振り返りもしない教授に向かって頭を下げる。視界のすみが滲んだのを隠すように。