緑の指を持つ君と
笑い
「おい、瀬波」
呼ばれて振り返る。渡り廊下に続く靴箱の並んだ昇降口だった。
呼んだ相手は、白衣のポケットに腕を突っ込みこちらを見ていた。
「蛍はどうした」
「繁殖分を残して放しました」
「…そうか」
考えるように俯きながら、顎をさする。白いものの混じる無精髭が伸びているのが見えた。
「見つかったか」
何とは言わない。大切に思える人なのか、自分の進む道のことなのか、欠けてこぼれ落ちた何物かを指しているようだった。
「…はい」
それが何であっても気にしないそぶりで、渋沢教授は後を続けた。
「笑ってろよ」
まるで彼女に言うような言葉に鼻白む。
「人間、笑ったほうがいいんだ。怒ったり、泣いたりしてもいい、それで無理矢理でも笑っとけ」
渡り廊下にいる教授に、陰っていた日差しがさして、眩しさに目を細める。
昇降口のひやりとした暗がりからでは表情を伺えなくなる。
「笑うってのはリラックスしなけりゃ出来ないんだよ。お前は力抜いたらいい」
微かに笑みが浮く。
「人を欺くために、笑うんじゃねぇぞ」
彼女が引き出してくれたのは、薄っぺらな笑顔じゃなかった。彼女の姿を思い描くだけで笑みは大きくなる。
この世の中には辛いことだって悲しいことだって、それこそ数えきれない程ある。
「それでも笑えって言うんですか?矛盾してませんか」
「そうだよ。それでも笑ってやるのさ」
「無茶言いますね」
「無茶じゃない。出来るさ。泣いても変わらんだろう?」
笑顔を作れば、心が錯覚をおこす。幸せか?満たされているか?たとえ違っていても笑い飛ばす。
自分の中の力を揺り動かすように、笑えばいい。
「…ありがとうございました」