緑の指を持つ君と
本の森
「瀬波さん」
「はい」
呼びかけると、読んでいた書籍から顔をあげる。またたきして視線を合わせてくれる。
「瀬波さん」
「はい。どうしましたか」
目を細めて、口元がゆるくあがり、ふわりとした笑みが浮く。
「瀬波さん」
「名前しか呼んでいませんよ」
ただ、なんとなく名前を呼びたくなった。
それはそばに居るのに、書物に心を奪われているからかもしれない。
名前を呼べば、私に気づいてくれる。笑ってくれて話してくれたらいいのに。
魔法の言葉は瀬波さんの名前だ。胸に抱いているだけで優しくあたたかい。
口にしたら、振り向かせることだってできる。
「ごめんなさい、呼びたかったんです」
席を立った瀬波さんが、上から覗きこむように私の顔を見つめてきた。こんなふうに眉根を寄せた顔を知っている。心配している顔だ。涙をぬぐうような仕草で指が頬に触れる。
背が高い瀬波さんが、視線を下げて私を見てくれる。ほんの少しだけ華奢で繊細な指を動かして私の頬が濡れていないか確かめていく。
「なにか困ったことでもあったのですか」
「ありません。大丈夫です私はこう見えて強いのですよ」
「頼もしいね。でも、なにかあったら言ってくださいね。あなたのことなら、何でも知りたいから」
親指が唇にたどり着き、確かめるように形をなぞる。ほかの指は顔のふちに添えられ、髪のなかへ潜り込むと胸がどきどきと早鐘を打つ。
笑みを浮かべた顔が近づいてくるので、慌てて目を閉じる。
目を閉じたら、きゅっと鼻を摘まれた。びっくりして目を開くと瀬波さんと視線がからむ。息のかかるくらいの至近距離で、瀬波さんはにっこり笑った。
「心配させた罰」
笑って瀬波さんが離れていく。
「期待してた」
いっきに顔に熱が集まる。恥ずかしい…
「してません」
「また後でね」
笑いながらページをめくっていく。まくられたページに視線を落とした瞬間、すうっと集中しだしたのがわかった。
何冊もの書物の中に、必要な知識を求めていくのは、海に潜るのに似ている。
瞬く知識を手に入れて思考を深めていく。
同じ場所でそばにいて、違うことをしていても、ふいに感じる瀬波さんの仕草にほっこりと嬉しくなる。
ただ見ているだけでも、幸せになれる。
私はひざかけを掛け直して、マグカップから温かい紅茶を飲んだ。
そして時間を共有するための文庫本を開いた。