緑の指を持つ君と
空蝉
木陰に、人がいる。
そんなに変わった光景じゃないのに、目が行くのはその人が長身のイケメンに分類されるからだ、と思う。
ジワジワ鳴く蝉時雨が降りしきる昼間。何をしているのか、木の幹を気にしてじっと立ちつくしている。
無視したっていいのに、あたしは何を気にしているのか、知りたくてたまらなくなって近寄った。
「センセぇ」
ぴくりと肩をふるわせて、振り向くと形のいい、薄い唇をを引き上げて笑みの形を作った。
「塾以外でその呼びかたは照れますね。どちらにお出かけですか」
あたしはリュックを背負った背中が見えるように、くるりと一回転した。正面に向き直ると遅れて回ったミニスカートの裾がひらりと揺れた。
「どちらもこちらもないよ!夏期こーしゅーないなら図書館行けって追い出されたんだから!」
にこりと笑う笑みが深くなる。
「それは大変ですね」
「もう、たいっへんっ部活してるほうがいいよ」
その時、腕を組んでむくれたあたしから、ついっと視線が逸れた。
え、話の途中なのに。
視線を追うと木の幹に、蝉の幼虫がしがみついていて、センセはそれを見ていた。
「なにこれ、脱皮?」
背中が割れて体を現わした蝉は、まだ白くて黄緑のラインが鮮やかで綺麗だった。上体を起こして、幼虫の抜け殻から体を反らしているのだから、まだ脱皮の途中らしい。
「ええ。成虫になるための脱皮を羽化といいます。……虫、大丈夫ですか?」
眉間をわずかにしかめたセンセは見つかってしまったことで、ふうっと息をついた。
「うん。これはキレーだねっ蝉でしょ」
「ええ。蝉ですね」
「なんでずっと見てんの」
痛いところを突かれたのか、一瞬顔をしかめたセンセは口元を片手で覆って、もう片方の腕を片腕の肘あたりでお腹の前にまわした。
「このままでは無防備でしょう?」
「なにが?蝉が?」
「普通なら蝉の羽化は夜から朝にかけて行われるものです。今、アリやカマキリ、カラスなどに襲われたとしても身動きすることは出来ません。まだ足が乾いてさえいない状態です。つかまることさえ出来ないから、体を反らせているんですよ」
「あー!ああ、そーなんだ腹筋すごいねー!」
なんでこんな無茶な格好をしているのかわかった。
「このくしゃくしゃな羽が本当に伸びるの」
「そのはずです」
またセンセはにこっと笑った。蝉はわずかに羽を振るわせながら重ならないように羽を開いている。
「センセ、虫が好きなの」
「そうですね。とても機能的で美しいと思います」
あたしは、みんな美しいだなんて思えなくて顔をしかめた。
「大概の人はそうですね。あまり好きではないようです」
センセは首を傾げるようにして、少し困った顔をする。
「いいよ。気にしなくて。あたし毛虫とか嫌いだけど蝉は嫌いじゃない。センセだってそうでしょ?あたしよりずっと嫌いが少ないだけ」
「そうですね」
ほっとしたように、センセの体から緊張が抜ける。
「誰もが好きだなんて思いません。でも、知らないで嫌いになって欲しくないですね」
蝉はゆっくり脚を動かし硬くなったのを確認すると、抜け殻にしがみつき残りの体を抜き出した。
「蝉は不完全変態と言って幼虫から成虫になります。蝶みたいに蛹になることがないのです。
蝶は蛹の中で細胞を溶かして新しく体を作り直す苦しさを味わうのですが、だからといって蝉が苦しまないといったら違うのです。
蝉の抜け殻に残る白い筋は、脱皮の際に表の組織と一枚で繋がっている内側の組織が剥がれた後なのです。人間で言ったら気管にあたる組織の皮です。
脱皮というものは外側だけでなく、内側にもリスクを持つものなのです」
そしてセンセはひどく優しい眼差しを蝉に向けた。
リスクがある、それはやっぱり失敗もあるということだ。
「だからここに居るの?」
センセは答えずに、ただいつもの穏やかな笑みを浮かべたままだ。
蝉が殻を抜け出したことで、あたしは蝉に対して興味が無くなってしまった。
「じゃあねセンセ、また塾でねー」
あたしが木陰から飛び出すと日差しが肌を焼いた。
「はい。また塾で。図書館まで気をつけて下さい」
あたしはセンセの言葉に押されて、図書館までの道のりを走りたいくらい嬉しくなる。手を振って前に向き直ると、日傘をさした女性とすれ違う。
白いレースのついたグレーのワンピースに膝下のレギンスを合わせて着ている、かわいらしい印象の女性だ。そして一目見て、びっくりするくらい知り合いに印象が似ていた。
姿形は違うのに、驚いてつい目で追ってしまうと、彼女はセンセの居る木陰へ向かって行き、センセの前で止まった。
センセは木の幹を見つめてなにか話していた。
それからゆっくり屈んで日傘の陰に身を寄せた。一瞬のことなのに、白昼堂々の見知った人の大胆な行為にあたしは慌てて目を逸らした。かあっと顔に血が登って熱くなる。
すれ違った女性はセンセの彼女だ。
センセととても似通った空気をしていた。透き通ったガラスのような透明感があった。
蝉一匹のその命の行方さえ心配するセンセが大切にする人なら、きっと素敵な人に違いなかった。