緑の指を持つ君と
とある日常

ケホ、と咳が出た。

怠さを感じている体を動かして、なんとか一日を乗り切ると、あとは早く休みたいという欲求だけが意識を埋めつくす。

日常に付随する様々な事柄全てを脇に押しやって、ベットに入るという安息だけを求めて足を動かす。



ぼんやりした意識に、ちかりと瞬くように彼女が浮かぶ。

抱きしめたい、いや縋りたいのだ。熱に浮かされた思考はとりとめもなく、瞬いては消える残像を求めていた。



本当に重症。

くすりと口許に笑みが浮く。どうしこうも彼女のことばかりなのだろう。

熱が出てくると取り留めもなく思考があちこちに飛ぶ。アパートの階段を上るのさえ体がふらつくので、手摺りに捕まり一段づつ踏み締めていく。

やっと部屋にたどり着いても、鞄から鍵を取り出すのがもどかしい。こつりと金属製のドアに頭をもたせ掛けて、手探りで鍵を探す。
額から伝わる冷たさが気持ちいい。気を抜くとうずくまりそうな体をやっとの思いで支えて部屋に入り、ベットまでたどり着く。



鞄を下ろしコートを脱ぐと、ちかちかとポケットが瞬くのが見えた。

携帯を取り出して確認するとメールが一件。美味しかったケーキの写真と、今度一緒に行きましょうねというお誘い。



それだけで胸のなかが満たされていくのを感じて、通話ボタンを押していた。

『瀬波さん』

目を閉じて彼女の全てを感じ取れるように、耳をすます。やわらかな声。甘さを伴って聞こえるのは、気のせいじゃない。


「声が聞きたくなりました」

ふふ、と笑う声を捕らえる。


『私もです』


なぜ、こんなに単純にたわいなく幸せになれるのだろう。

ただ、あなたがそこに居るだけで。


『なんだか声が、いつもと違いますね』

「風邪を引きました。熱があるようです」


カタン、とテーブルが動く音がした。ぱたぱたとスリッパの音。


『大人しくしていてください。そちらに行きますから』

必死で有無を言わせない声音で言い切る。普段の優しげな様子からでは想像がつかないこともあるけれど、彼女には頑固な一面もある。


衣擦れの音、バックについているチャームの触れあう金属音。


「大丈夫だと言ってもですか」


『駄目です、私が心配して寝れません』

「それでは仕方ありません」


ため息とともに、軽い金属製のドアが閉まる。

「暗くなっていますから、夜道は気をつけて。迎えに行く自信がありません」

『私の心配ならいりません。瀬波さんのご飯とお薬のほうが心配です』

階段を駆け降りているので、息があらい。


「僕はあなたのほうが心配です」


こんなに急いで転んだりしないだろうか。誰かにぶつかってしまったり、車道に飛びだしたりしないだろうか。
もう夜道は暗いのに、自分のためだけに走ってきてくれるのだ。

じわりと胸に嬉しさが込み上げてくる。



『私は心配いりません。ご飯はまだ召し上がっていませんね。お薬も用意しますから』


「わかりました。待っています」


こんなに強く言い切ることは普段ないのに、決断したなら有無を言わせない強さで押し通す。

通話が途切れても、彼女になにかありはしないかと携帯を握りしめている。

ベットにもたれ掛かり息を吐く。彼女の手を煩わせるつもりはなかった。今まで自分のことなら自分で出来ていたのだから。



風邪で弱くなっているだけだから、そう言ってしまえたらいい。

でも、声を聞いたら、会いたくなった。


彼女は今すぐ、ここまで走って来てくれる。そういう人なのだ。馬鹿みたいに、一途で一所懸命で、ただただ愛おしい。



自分はなんて幸せなんだろう。彼女がいてくれて、自分はこんなにも満たされる。

ぶるりと寒気立ち体をベットまでずりあげる。熱が上がりきってしまうまでが辛い。汗が浮いてきて服を張り付かせ体温を下げようと戦いだす。

意識なんてしなくても、体は行動を開始する。最善を求めて考えてばかりの頭なんかより、よっぽどいい。


ふわふわとした意識に彼女が割り込んできて、いつしか意識を手放していたのを知る。

華奢な手が、浮いていた汗をぬぐい、ぺたりと冷たいものが額を覆う。


「起こしてしまいましたか。様子を見てからご飯を用意しますね」

にこりと笑った顔は見慣れたもので、なぜか無性に胸がせつなくなる。

片腕で顔を覆いながら、もう片方の腕で、彼女の腕を捕らえていた。



「もう少しだけ、このままそばにいて下さい」


とんとん、と捕らえている自分の腕に手の平を添えられる。


「瀬波さんが満足するまで居ますよ。ううん…本当は、私がそばにいたいんです」


優しくて甘い声に、またとろとろと意識が保てなくなってくる。

それは一人きりでない闇に、彼女を感じながら落ちていく。


そんな特別でささやかな幸せに満たされながら、意識を手放した。

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