緑の指を持つ君と
考えても仕方ない。今日は秘密の瀬波さんを堪能することにした。
壁にかかった白衣を手に取ると、ふわりと瀬波さんの香りがした。シャンプーなのか整髪料なのか、グリーンノートの香りが鼻をくすぐり瀬波さんを身近に感じられた。
こうして白衣を手にしていると、自分がハンガーにかけたような錯覚がおきる。
帰ってきた瀬波さんから白衣を受け取り、ハンガーにかける…まるで一緒に暮らしているような…
夢見がちな想像。
実際は白衣を来て街中を歩くことなど有り得ないのに、いままで憧れていた姿が白衣だっただけに、お付き合いを始めた今でも白衣を着た瀬波さんにドキリとする。
自分に当ててみると、足首に届くほど長い。
……ちょっと着てみようかな……
なんだかいけない事をするという感じはある。一歩間違ったらストーカーみたいな。
でも私は思いきって着てみた。だって瀬波さんが悪いんだもの。そうして、どこかで自分をごまかしながら。瀬波さんのせいにして。
私を一人にするから、いけないんです……
大きめの白衣は私を包んでまだ余裕がある。動くと衣ずれがして、また瀬波さんの香りがたつ。
目を閉じると、すぐそばに瀬波さんがいるみたい。
私はきっと瀬波さんにかまってもらいたい……
今までなら何でもなかった約束のドタキャンでさえ、期待していた分だけ寂しくてたまらない。瀬波さんの喜びそうなお店を探して、瀬波さんの好きなお肉を注文しようとか、食事に合わせてお酒も飲もうとか。
瀬波さんとのお付き合い以前は、約束をドタキャンされても、もっときちんと諦めていたのに。
瀬波さんの椅子を引き出して座ってみる。
瀬波さんのいつも見ている風景は、壁一面の引き出しのある、真っ白な世界。
清潔できちんと分類されている。真っ白な壁に自分の気持ちを投影することがあるのかしら。
何を思って何を考えるの。
私の真っ白な壁には、悔しいくらい瀬波さんしか写らない。はにかむように笑った顔も、パソコンを覗きこむ真剣な眼差しも。ゆるゆると頬を緩めてできる、やわらかな笑顔も。
デスクに触れてみると、ひやりと熱を奪う。
瀬波さんの温もりが残っていたら、ほお擦りしてしまいそう。
考えに耽っていたら、ガチリとドアノブが回る音がした。音を耳が拾い、瞬きして見ると、そこには瀬波さんが立っていた。
いきなり現れた瀬波さんは、私が会いたかったから?
夢を見ているの?
「どうして…」
「連絡が取れないから、まだ大学かもしれないと思って」
「でも…なんでここだって」
いつもの やわらかな印象ではなく、ざらついた感情が透けて見えるようだ。
「下駄箱の鍵、持って行ったでしょう。他にどこに行くんですか」
「…勝手に入ってごめんなさい」
しかも白衣は無断着用してる。
瀬波さんは、くしゃりと髪をかきあげる。
「僕がどんな気持ちか分かりますか」
瀬波さんは椅子に座ったままの私に近づき、屈んで目線を合わせる。
答えられない私は首を振る。瀬波さんの瞳の色は深く、複雑で考えを読み取ることは出来ない。
「連絡が取れないので、心配しました」
「お友達と一緒なら、もう今日は連絡がないと思いました」
離れている友達となら、いくら話しても話し足りないだろうから、食事でもしてその後はお酒を飲んでいると思っていた。
「彼は日帰りの予定です。見送りがてら話しただけです。ただ、その後で食事を、というと遅くなりますから、今日はやめてもらいました」
私はきちんと聞いていなかったの?日帰りだなんて…忙しいのに。心配かけて探してもらって。
俯いてしまった私を見て、瀬波さんは顎に手をかける。
「反省しているんですか」
「ごめんなさい」
吐息が触れてしまいそうで恥ずかしい。瀬波さんの顔は整っていて、息すら乱れていない。こんなにドキドキしているのは、私だけみたい…
「今、キスはしません。うやむやにしたくないんです」