緑の指を持つ君と
キスしちゃいそう。
なんて思っていた私の心臓は、はち切れそうに活動して、体中の温度を上げていく。
ゆっくり唇をなぞる指を感じながら、お預けをくらっているのに、瀬波さんは何か考えを巡らせているようで、唇を触る指に熱はない。
むっとした私は、瀬波さんの指をくわえた。
一瞬、歯が触れて瀬波さんが目を見開いて私を見た。
「おねだりはまだダメです。あなたは本当に仕方のない人なんですね…」
「ち…違います。私のいけなかったことは謝りました。でも瀬波さんは、うやむやにしたくないと言いました。お話はなんですか…あの、何か言いづらいこと、ですか」
瀬波さんは、ふっと笑った。息を吐くように自然に。
「ええ。とても言いづらくて、今まで口にすることが出来ませんでした」
私の噛んだ親指を唇から離して、手の平で顔の輪郭を包みこむ。大きな温かい手。瀬波さんは、大きな犬みたいな目をしている。
「僕の専攻を知っていますか」
「生物学、ですよね。主に昆虫」
「そうです。昆虫といってもイロイロある。なぜ、僕があなたをこの部屋に招かないのか不思議に思いませんでしたか。見たいと言ってもはぐらかして」
「…散らかっているからだと…そう聞いていました」
「そんなことはありません」
きちりと整えられたデスクまわりや、引き出しのぴたりと閉まった収納棚を見れば、乱雑さなど微塵もない。自分のデスクだけでなく、この部屋を使う人全てのデスクまわりにさえ気を配っているのがわかる。
デスクを回り込んだ瀬波さんは、収納棚から白い箱を取り出した。
「例えば…これはどうでしょう」
見えるように胸の前に箱が差し出される。手に取ってみると、いくつもの蝶の標本がピンで留められていた。
「わー凄いですね」
鮮やかなブルーの羽や、艶やかな黒い羽。なんて自然は綺麗な色を蝶に与えたんだろう」
「大丈夫なほう、ですか」
掠れるくらいに、ほっと息をつく。
「でもこれは、良いほうですから。研究の対象とするものの中には、人には理解できない虫だっています」
笑おうとして失敗したように、薄い笑みをはいた。
「僕が研究しようと選んだ道を、あなたに拒否されたくなかったんです」
虫が苦手な人なら、そう沢山いる。男の人でだって毛虫がダメ、ムカデがダメとかある。
ああ…
瀬波さんの言葉が心に落ちてきて、波紋をひろげていく。パソコン画面をスクロールしていくように、記憶のなかから情景が流れていく。
『毛虫キモイ』
『ガって触ると変な粉つくじゃんヤバい』
瀬波さんの子供時代は知らないけれど、何か傷つくことはあったのだろう。
それこそトラウマと言えるものが。
「僕は昆虫を研究していますね。研究していたら、どうしても虫に触ることになります。あなたは僕が虫を触った手でふれたら………きっと嫌がるのではないかと思いました」
どうしてだろうとは思っていた。瀬波さんは、モテるのに彼女がいたことはなかった。
今までお付き合いした人のなかには、虫が嫌いな人がいたのだろう。
「あまり私に触れないのは、私が嫌がると思って?」
「ええ嫌いになりましたか」
瀬波さんの手は、私の頬を撫でて感触を確かめている。
「言っていることと、していることが違います」
瀬波さんの手に自分の手を重ねて、唇まで導く。親指から一本づつキスしていき最後に手の甲へとキスをした。
「怖い虫や、気持ち悪い虫もいます。でも…私は瀬波さんが好きだというものを否定するつもりはありません。虫のことを話してくれる瀬波さんは、とってもいい表情をしているんですよ。ちょっと惚れなおしちゃうくらい」
言ってから、てへへと照れ笑いがでた。
目を見開いて、それから瀬波さんはくしゃっと顔を歪めた。表情の変化を確認するより早く、力強く抱きしめられた。
耳の後ろに瀬波さんの息がかかる。
「どうして あなたに惹かれたのか解りました。どうしてあなたでなくては いけないのかも」