伸ばした腕のその先に
 私は彼の胸から離れ、椅子に座りなおした。
 彼は、その瞳に驚きもざわめきも映すことなく私を見つめくる。
それは、私の瞳の更に奥、心の隅々を見透かされるような視線。

 夜のように静かで、深く青々とした彼の眼差しが私を捕らえて抱きしめていた。
 私の願いを責めるでもなく、拒むでもなく。
 だれど、その視線は絶対の境界となり、私に続きをいわしてはくれない。

 けれど、私が彼から顔を背けた途端、私の口は何かにとり憑かれたかのように言葉を発し始めた。それは、坂を転がり落ちる石のように、止まるところを知らない。
「宵はね、私にとって陽くんなんだ。あなたのその声が私の心を、すべてを縛るんだ。
 あなたが私の名前を呼ぶたび、その口を開くたび、私は陽くんを思い出す。
 それは、きっとこれからも変わらない。
 だからね、あなたは陽くんなの。私にとってかけがえのない、私だけの陽くんなの」

 宵は何も答えてはくれなかった。沈黙は、湿った闇となって私に襲い掛かる。
 でも、それでも私の口は、心は言葉をもらす。それは宵に自身にいい訳をするように。

「私をいなくなったその子の代わりにすればいいよ。だから――」
 だが、その続きは今日二度目の口づけで封じられてしまった。
 先ほどとは似て異なる、震えるほどに冷たくて、それでもずっと浸っていたくなるような口づけに。

 五秒、十秒……。
 その軽く押し付けるような唇は、言葉を私の胸中にとどめ飛び出すことを許してはくれない。
 そして、二十秒の長いキスの後、宵は私の変わりに言葉を紡ぐのだ。
「だから、ぼくは君のなくしたものの代わりをすればいい」
 そして、宵は私の唇を親指でなぞった後。
 いいよ、美月。そういった。
< 20 / 34 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop