伸ばした腕のその先に
「侑子ちゃーん、いるぅ?」
 それは、まだわたしがバイトを始めた一年生の夏前、ちょうど二年ほど前のことだった。
 レジの練習に悪戦苦闘して、頭を抱えているわたしに、店頭からそんな声が響いてきた。
 気づけば、わたしは緊張と不安を半分ずつ携えながらも、思わず裏から顔をのぞかせた。
 そして、そこにいたのが陽くんだった。

 百八十以上は軽くあるかという高い身長、
 少しぼさぼさの茶髪、
 ザックリと羽織ったカーキー色のジャケット。
 目鼻立ちもはっきりしているが、美しい格好いいというより、溢れる笑顔が、生命力とでもいうようなものがわたしにはとても眩しかった。

「あっ、そこの可愛い店員さん。侑子ちゃん呼んでもらっていい?」
「えっ? えっ?」
 隠れていたつもりはないのだが、声をかけられわたしはおたおたと取り乱す。
 じっと見ていた気恥ずかしさと、いきなりいわれた名前が頭の中で入り乱れ、言葉が出てこない。
 旅行前の部屋のごとく、いらないものまでが頭の中に飛び出してきてしまう。

 彼はそんなわたしを不思議そうに眺めながら質問を重ねていく。
 わたしはその声を、マクの内側――ごちゃごちゃに物の散乱した部屋の中で、目を細めながら聞いていた。
「佐倉 侑子ちゃん、ここの店長さんやってない?」

 そのとき、店の奥から声を聞きつけたのか侑子さんが姿を現した。
 後ろで束ねた髪を解くと、それらはビロードのような滑らかさを以ってサラリと揺れる。
「陽くん、店頭で気安く人の名前を呼ばないでくれるかい?」
「いぃじゃん。俺と侑子ちゃんの仲だしさ」

 わたしはそのとき、訳もわからず親しげに話す陽くんと侑子さんを眺めていた。
 まるで、長年一緒に連れ添ったかのようにお互いを理解している、そんな割り込みにくさがそこにはあった。
 すると、侑子さんがそんなわたしを察したのか、苦笑いを浮かべながら陽くんを嗜めた。

「全く、君のおかげで美月ちゃんが困惑しているじゃないか」
「美月ちゃん? その子?」
「あぁ、先月から入った可愛く、一途で、頼もしいバイトちゃんだ」

 わたしはとっさに頭を下げる。
 下げた頭に陽くんの視線が注がれているが感じられた。
 顔を上げると目が合って、わたしは顔を赤らめながら一歩だけ後退してしまう。
 侑子さんは、おやおや、と意地悪そうに笑うと陽くんに向き直る。

「今日はどうしたんだい、まさか暇つぶしに商売の邪魔しにきたなんていわないだろうね」
「バイトしながらの放浪も疲れたんでね。こっちに帰ってきたその足で、侑子ちゃんの顔を見にきたんだよ。まぁ特に用もないし、また出直すよ」
 すると、陽くんは歯を剥きだしにして笑うと、そのまま踵を返そうとする。

「なんだい、忙しないね。コーヒーでも飲んでかないのかい?」
「どっちだよ。商売の邪魔しちゃ悪いだろ? しばらくこっちにいるし、また来るからさ」
 そうして、プランターから一本のスターチスを抜き取り、人ごみに紛れていった。
 わたしはそれを、鼓膜のどこか緩く痺れたような感覚に囚われながら見送っていた。

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