【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
家臣の意見
 これより前、筑前、名島城の秀
秋のもとに輝元の使者がやって来
た。それは家康討伐に加わるよう
にとの知らせだった。
 秀秋は主だった家臣を集め意見
を求めた。
 稲葉正成はまだ二十九歳だった
が筆頭家老になっていた。
 稲葉からは意外な答えが返って
きた。
「こたびの首謀者は三成殿と聞い
ております。その三成殿は政務一
辺倒で諸大名をまとめる力はな
く、秀頼様を補佐する器ではあり
ません。家康殿こそ真の後見人と
なるお方です」
 稲葉は豊臣家から小早川家に
移ったことで出世の道が絶たれ
た。そこで次期政権の最有力者、
家康に出世の望みを託そうとして
いたのだ。
 杉原重治は四十五歳。今は高台
院と称しているねねの叔父、杉原
家次の養子になり長く秀吉に仕え
ていた。
 杉原は稲葉と違い、忠義を選ん
だ。
「まだ幼き秀頼様を補佐する役目
の家康殿が勝手な振る舞いをして
いるのは許せません。秀頼様をお
守りするのが大事と心得ます」
 松野重元は四十九歳。秀吉に仕
えていたが、秀秋が筑前に移った
時に鉄炮頭としてつき従った。治
水工事なども得意としていた。
「三成殿には越前、北ノ庄に移る
時に親身に面倒を見ていただいた
恩義がございます。そのご恩を忘
れてはなりません」
 岩見重太郎は三十二歳。小早川
隆景に仕え養子になる秀秋の家臣
となるよう命じられた。軍学に長
け、剣術指南役でもあった。
「殿は大殿の後継者になられたい
じょう、毛利家、吉川家と共に行
動していただきたい」
 平岡頼勝は四十一歳。諸国を流
浪した後、秀秋に仕えるように
なった。家康との使者役をするこ
とが多く、家康から高く評価され
ていた。
「御殿のいかなる命にも従いま
す」
 沈着冷静な平岡はいつも何を考
えているのか分からなかった。
 こうして秀秋は皆から意見を聞
くことで、それぞれの立場を尊重
し、またその違いを把握すること
に努めた。そして最終的な判断は
秀秋自身がして意見対立すること
を避けた。
 これは実の親から離され、養子
として生活しているうちに人間関
係を円滑に保つため自然に身につ
いた知恵だった。
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