【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
疑心暗鬼
 義弘が火箭を大量に製造でき、
すでに保有もしていることが分か
ると宇喜多秀家らが大坂城に籠城
するのではなく野戦をするべきだ
と主張した。
 秀家は豊臣秀吉の養子であり、
毛利輝元と一緒に大坂城にいる秀
頼の名代として兵一万八千人を率
いる総大将となっていた。そのた
め三成もしかたなく従うことにし
た。

 家康が伏見城落城の様子を聞く
とがく然とした。それは島津義弘
の裏切りと秀秋に送り込んだ浪人
が秀秋に従って行動していること
だった。
(なぜだ。圧倒的に優勢なわしを
義弘はなぜ裏切ったのだ。それに
あの小僧。どこにわしの送り込ん
だ浪人を手なずける力があるとい
うのだ)
 家康は疑心暗鬼におちいり、秀
吉に仕えていた諸大名を信じられ
なくなっていった。
 伏見城が落城した後、秀秋はす
ぐに家康に味方する黒田長政を通
じて家康に伏見城攻めのことを謝
罪し、病気療養を理由に謹慎し
た。
 家康に謝罪したのは、自分がた
だの小僧ではなく戦いでの影響力
があることを印象づけるためだっ
た。
 秀秋の脳裏にいつかの「秀秋殿
に助けてもらうようでは、わしも
隠居せねばならんのぅ」という言
葉が蘇った。
 謹慎している秀秋は釣りや鷹狩
りなどをして過ごし病気療養は偽
りだった。
 秀秋が家臣たちと一緒に釣りを
して楽しんでいると、そこに別の
家臣が書状を持ってやって来た。
その書状は、三成からのもので、
もうじき始まる戦に加わり、大垣
城に入るようにとの要請だった。
その後も三成から再三、出兵要請
があったが、秀秋は応じなかっ
た。
 秀秋は家康の反応をうかがって
いたが、家康からは秀秋に何の接
触もなかった。しかし、秀秋が三
成の要請を固く断っていると報告
を受けた家康は、秀秋に使者を送
り出兵要請を持ち掛け、探りを入
れてくるようになった。
 ようやく家康も秀秋に注目する
ようになっていた。しかし秀秋は
すぐには応じなかった。
 秀秋はこうして家康をじらすこ
とで、どれだけ評価しているかを
知ろうとしたのだ。
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