【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
関ヶ原布陣
 やがて各部隊は関ヶ原へと集結
した。
 天候は霧雨から豪雨に変わり、
西風が吹き始めていた。
 東軍は桃配山に本陣を置いた徳
川家康を中心としてその前後を中
山道沿いに各部隊がまるで伸び
きった龍のように布陣していた。
後は秀忠が到着して家康の本陣の
側に配置すれば魚鱗の陣となる。
これに対して西軍は総大将の宇喜
多秀家を中心に東軍の大砲の射程
距離に入らないように横並びの鶴
翼の陣で諸大名が布陣した。
 ところが毛利輝元の名代として
やって来たはずの輝元の養子、秀
元と吉川広家の部隊が東軍側にあ
る南宮山に布陣したことで毛利一
族がどちらに味方するのか分から
なくなった。これは広家が家康と
内通し、何も知らない秀元を誘導
したことによるものだった。
 西軍側の松尾山城には、はすで
に西軍の伊藤盛正が布陣して待機
していた。そこへ突然、小早川
隊、一万五千人の兵がなだれ込
み、慌てる伊藤を無視して布陣の
準備を始めた。この時、伊藤はま
だ秀秋が西軍だと錯覚していた。
 稲葉があ然としている伊藤に近
づいた。
「われら兵多勢により、適当な布
陣場所はここしかない。伊藤殿に
はお引取り願います」
 伊藤は怒りと屈辱に体が震え
た。
「こ、これは、三成殿は承知のこ
とか」
 稲葉は無視するように布陣の様
子を見まわった。
 伊藤が反論しようにも、すでに
準備は整いつつあり、なすすべも
なく引き下がった。
 このあっけない無血入城により
秀秋は東軍として一番手柄を立
て、南宮山の毛利秀元の部隊をけ
ん制してあたかも東軍に組み入れ
たかのように動けなくした。これ
で東軍は秀吉から東の統治を任さ
れた徳川家と西の統治を任された
毛利家の連合軍が三成にそそのか
されて集まった反乱軍を討伐する
という大義名分を与える効果も
あった。
 秀秋の部隊の将兵はこれで戦わ
ずに生きて家族のもとに帰れると
狂喜し歓声を上げた。後は東軍の
勝利を待つだけとなった。
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