【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
戦後復興
 秀吉は宣伝の力に気づいてい
た。
 なきがらのない信長の葬儀を盛
大におこなったのは、世間に信長
の死を認めさせ、信長政権が終
わったことを宣伝するためだ。ま
た柴田勝家との戦いでは手柄を上
げた子飼いの家臣、福島正則、加
藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平
野長泰、糟屋武則、片桐且元を
「賤ヶ岳の七本槍」と称して七福
神になぞらえ、あたかも神が味方
しているように宣伝した。その効
果は諸大名を威圧し、反抗してい
た信長の三男・信孝を自刃させて
も反発は起きなかった。そして秀
吉が近江、長浜城に凱旋帰城する
と朝廷の勅使が城まで出向き、戦
勝を祝賀したほどだ。さらに秀吉
が天下統一を宣言することまで正
当化させた。
 秀吉はこの権勢を誇示するかの
ように大坂城を築城した。
 幾多の城を攻め落とした秀吉だ
けあって城の欠点を知りつくし、
各地の城の利点を活かした堅固で
荘厳な城を築いた。
 大坂城が完成したとき、招いた
諸大名はその見事さに驚嘆した。
しかし秀吉の考える築城は敵対す
る諸大名から防衛するためではな
く、戦続きで貧困に苦しんでいた
民衆の雇用対策と疲弊した領地の
復興が目的だった。
 秀吉は過去、信長の家臣だった
時に大風で清洲城の塀が倒壊して
いたのを修理する御普請奉行の役
をこなしている。その時のやり方
は堀を区分けして、集まった工夫
たちに分担して作業させるもの
で、作業の能率によって賃金を決
めたので工夫たちは競って働き、
短期間で完成することができた。
 大坂城もこうしたやり方で民衆
のやる気を引き出し、特徴的な内
堀と外堀を造成した。
 戦後復興を早めたことで民衆の
秀吉に対する信頼は高まり、敵対
する諸国の民衆にも秀吉人気が広
まった。
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