【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
 関ヶ原の合戦後は京の東山に隠
居し、歌人として生きる道を選ん
だ。
「秀詮はどこか体が悪いのか。惺
窩先生から薬を預かってきた」
「それはありがとうございます。
なにたいしたことはありません。
少し疲れが出ただけです」
「それならよいが。無理をせんよ
うに。薬は五種類あって一つずつ
服用するように、体にあわないも
のは発疹が出るから止めるよう
に。全てあわなければ別の薬を用
意すると惺窩先生がおっしゃって
おった」
「そうですか」
 長嘯子の目には秀秋が落胆した
ように見えた。
「秀詮どうじゃ、いっそわしのよ
うに隠居しては。もう刀や槍を振
りかざす時代でもあるまい」
「はい。そうですね。それもいい
かもしれませんね。しかし、私に
は兄のように歌の才はありません
し…」
「なになに、秀詮は幼き頃より遊
びの才があったではないか。何で
も良いのじゃ。まだ若いのだから
気長にやりたいことをみつければ
よい」
「はい。兄上と話していると気分
が晴れます」
 秀詮と長嘯子は時を忘れて話し
込んだ。
 その頃、惺窩の指示を受けた稲
葉正成は密かに長門の毛利家に向
かっていた。
 毛利家は豊臣秀吉の時代には安
芸・周防・長門・石見・出雲・備
後・隠岐の七ヵ国を所領とした百
二十万石の大大名で五大老に列せ
られていた。しかし、関ヶ原の合
戦で毛利輝元は大坂城に入り秀吉
の嫡男、秀頼を守るという理由で
動かず、代わりに関ヶ原に向かわ
せた毛利秀元と吉川広家の部隊は
戦いが始まっても動かず、最後ま
で西軍とも東軍とも言えない挙動
をした。そのため石田三成と通じ
ていた安国寺恵瓊は責任をすべて
かぶり、捕らえられた三成と供に
六条河原で斬首にされた。また、
輝元が大坂城から退く時も家康に
不信を抱かせたことで西から反乱
軍が出たのは西の統治者である毛
利家の失態とされ、輝元は改易さ
れそうになった。しかし、吉川広
家が家康に直談判して広家の所領
になるはずだった周防・長門二カ
国の三十万石を輝元の所領とする
ことで改易は免れた。百二十万石
からの大幅な減封になった。
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