【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
関白秀吉
朝廷をも動かす力をつけた秀吉
は、西国を支配する毛利輝元と同
盟を結び、四国の長宗我部元親と
九州の島津義久への押さえとし
た。そして年が明けた天正十三年
(一五八五年)三月に紀州の雑賀
衆、根来衆の一揆討伐に出陣し
た。
雑賀衆、根来衆は家康に味方し
ていたのだが、秀吉は家康の手を
借りず討伐しようとしたため予想
以上の反撃にあい、一旦退却し再
び兵十万人の大軍を率いて出陣し
た。この時には小早川隆景にも毛
利水軍の出動を要請した。これに
対して雑賀衆、根来衆は兵二万人
で迎え撃った。
歴然とした兵力の差に加え、雑
賀衆、根来衆は城に分散して籠城
戦を選んだため、奮戦はするもの
の次々に落城していった。
城攻めが得意な秀吉と説得して
開城させるのが得意な弟、秀長の
硬軟合わせた絶妙な対応も戦いの
終結を早めた。
一気に根来衆の本拠地、根来寺
に押し寄せた秀吉の大軍に、立て
こもっていた鉄砲部隊五百人の奮
戦もむなしく寺は焼き払われた。
雑賀衆は内紛状態にあり、ほと
んど戦うこともなく首領、土橋平
之丞の居城、土橋城を落城させる
と最後に残った太田党の籠城する
太田城の周りに堤防を築かせ水攻
めにした。すると程なく兵糧がつ
き降伏した。籠城していたほとん
どが百姓や女、子らだった。
同年六月に入ると秀吉は体調が
おもわしくなかったため秀長を総
大将とした兵十万人の大軍を四国
征伐に向かわせた。
四国を支配していた長宗我部元
親も家康に味方していたのだが、
この時も家康の手を借りることは
なかった。
元親は阿波の白地城に兵二万で
防備を固めた。これに対し秀長は
甥の秀次と阿波に上陸し宇喜多秀
家らは讃岐に毛利輝元や小早川隆
景らは伊予にそれぞれ上陸した。
羽柴軍は各地で勝利し追い詰め
られた元親は秀長に説得され降伏
した。その後、元親は土佐を安堵
され秀吉に恭順した。
この間の七月十一日に秀吉は関
白に就任した。民衆は百姓の身か
ら関白になるという途方もない夢
を実現した秀吉に憧れ、励みとし
た。
は、西国を支配する毛利輝元と同
盟を結び、四国の長宗我部元親と
九州の島津義久への押さえとし
た。そして年が明けた天正十三年
(一五八五年)三月に紀州の雑賀
衆、根来衆の一揆討伐に出陣し
た。
雑賀衆、根来衆は家康に味方し
ていたのだが、秀吉は家康の手を
借りず討伐しようとしたため予想
以上の反撃にあい、一旦退却し再
び兵十万人の大軍を率いて出陣し
た。この時には小早川隆景にも毛
利水軍の出動を要請した。これに
対して雑賀衆、根来衆は兵二万人
で迎え撃った。
歴然とした兵力の差に加え、雑
賀衆、根来衆は城に分散して籠城
戦を選んだため、奮戦はするもの
の次々に落城していった。
城攻めが得意な秀吉と説得して
開城させるのが得意な弟、秀長の
硬軟合わせた絶妙な対応も戦いの
終結を早めた。
一気に根来衆の本拠地、根来寺
に押し寄せた秀吉の大軍に、立て
こもっていた鉄砲部隊五百人の奮
戦もむなしく寺は焼き払われた。
雑賀衆は内紛状態にあり、ほと
んど戦うこともなく首領、土橋平
之丞の居城、土橋城を落城させる
と最後に残った太田党の籠城する
太田城の周りに堤防を築かせ水攻
めにした。すると程なく兵糧がつ
き降伏した。籠城していたほとん
どが百姓や女、子らだった。
同年六月に入ると秀吉は体調が
おもわしくなかったため秀長を総
大将とした兵十万人の大軍を四国
征伐に向かわせた。
四国を支配していた長宗我部元
親も家康に味方していたのだが、
この時も家康の手を借りることは
なかった。
元親は阿波の白地城に兵二万で
防備を固めた。これに対し秀長は
甥の秀次と阿波に上陸し宇喜多秀
家らは讃岐に毛利輝元や小早川隆
景らは伊予にそれぞれ上陸した。
羽柴軍は各地で勝利し追い詰め
られた元親は秀長に説得され降伏
した。その後、元親は土佐を安堵
され秀吉に恭順した。
この間の七月十一日に秀吉は関
白に就任した。民衆は百姓の身か
ら関白になるという途方もない夢
を実現した秀吉に憧れ、励みとし
た。