【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
太政大臣
家康が秀吉に正式に臣従を誓っ
たと聞いて動揺したのは足利義昭
だった。
京御所の茶会で、豊臣幕府をお
こすには東国と関東を支配する必
要があり「まずは徳川氏、北条氏
を屈服させることだ」と言った時
の「もちろん近いうちに」と簡単
に返答した秀吉の言葉が脳裏をよ
ぎった。そして義昭をさらに驚か
せたのが、秀吉が関白になるため
に養父にされた近衛前久から今度
はその娘の前子を秀吉の養女と
し、即位して間もない後陽成天皇
の女御として入内させたことだ。
これは豊臣幕府を超えて豊臣帝国
と呼べるものが誕生したことを意
味していた。
義昭はすぐさま島津義久に秀吉
と和睦するように伝え、自らも秀
吉に恭順する態度を示した。
大友氏を孤立させていた島津氏
が逆に孤立することになった。し
かし今さら後には引けず、裏切っ
た毛利氏に対する怒りもあり攻勢
を強めていった。
太政大臣に就任した秀吉は翌年
の天正十五年(一五八七年)一月
には宇喜多秀家、二月には福島正
則、細川忠興、羽柴秀長らを次々
と九州征伐に向かわせた。そして
三月になると自らも兵八万人の部
隊を率いて出陣した。その後も浅
野長政、加藤清正など秀吉と共に
数々の戦いを勝ち抜いた者たちの
出陣が続いた。
秀吉が備後、赤阪に到着すると
足利義昭が出迎えた。その姿に室
町幕府、第十五代将軍の面影はな
く幕府復興は完全にあきらめてい
た。
赤阪を出発して安芸に到着した
秀吉は厳島に渡り、かつて平清盛
が平家納経を奉納した厳島神社で
戦勝祈願をした。秀吉は平氏の流
れをくむ家系と名乗っていたの
で、清盛と同じ太政大臣にまで
なったことをしみじみと噛みしめ
ていた。
たと聞いて動揺したのは足利義昭
だった。
京御所の茶会で、豊臣幕府をお
こすには東国と関東を支配する必
要があり「まずは徳川氏、北条氏
を屈服させることだ」と言った時
の「もちろん近いうちに」と簡単
に返答した秀吉の言葉が脳裏をよ
ぎった。そして義昭をさらに驚か
せたのが、秀吉が関白になるため
に養父にされた近衛前久から今度
はその娘の前子を秀吉の養女と
し、即位して間もない後陽成天皇
の女御として入内させたことだ。
これは豊臣幕府を超えて豊臣帝国
と呼べるものが誕生したことを意
味していた。
義昭はすぐさま島津義久に秀吉
と和睦するように伝え、自らも秀
吉に恭順する態度を示した。
大友氏を孤立させていた島津氏
が逆に孤立することになった。し
かし今さら後には引けず、裏切っ
た毛利氏に対する怒りもあり攻勢
を強めていった。
太政大臣に就任した秀吉は翌年
の天正十五年(一五八七年)一月
には宇喜多秀家、二月には福島正
則、細川忠興、羽柴秀長らを次々
と九州征伐に向かわせた。そして
三月になると自らも兵八万人の部
隊を率いて出陣した。その後も浅
野長政、加藤清正など秀吉と共に
数々の戦いを勝ち抜いた者たちの
出陣が続いた。
秀吉が備後、赤阪に到着すると
足利義昭が出迎えた。その姿に室
町幕府、第十五代将軍の面影はな
く幕府復興は完全にあきらめてい
た。
赤阪を出発して安芸に到着した
秀吉は厳島に渡り、かつて平清盛
が平家納経を奉納した厳島神社で
戦勝祈願をした。秀吉は平氏の流
れをくむ家系と名乗っていたの
で、清盛と同じ太政大臣にまで
なったことをしみじみと噛みしめ
ていた。