【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
四面楚歌
天正十七年(一五八九年)十月
秀吉はたびたび奈良の郡山など
で諸大名や公家衆と鷹狩などを口
実にして、お忍びで会うように
なった。その中には徳川家康もい
た。
秀吉はここで相模、小田原征伐
の方策をねったのだ。
小田原は北条早雲以来、後北条
氏の五代にわたって領有している
地域で、今は北条氏政、氏直父子
が守っていた。
秀吉にはすでに天下統一の既成
事実があったので攻める大義名分
は必要なかった。しかし、北条氏
の居城、小田原城は今までの城と
は違っていた。あの上杉謙信や武
田信玄でさえ落城させられなかっ
たその城は、自然の山、川、海を
巧みに利用し小田原の町全体を土
塁と空堀で取り囲んでいた。これ
は日本の城の考え方というよりも
大陸、明の城郭都市に近い考え方
だった。この城に籠城すれば何年
だろうが持ちこたえることができ
る。今の秀吉なら大軍で城を取り
囲むことは難しくない。しかし得
意とした兵糧攻め、水攻めなど城
攻めが何もできない難攻不落の城
だった。
秀吉は四面楚歌の秘策を考えて
いた。それは昔、大陸で楚の項羽
と漢の劉邦が争っていた時のこ
と。やがて劣勢になった項羽が垓
下という所に砦を築き立てこもっ
た。そこを劉邦が大軍で四方を取
り囲んだ。劉邦は民の心をつかん
で漢を起こした人物だけに項羽に
も兵を失うだけの無益な戦いをし
ないよう情に訴えることにした。
ある夜、四方の漢軍の中からいっ
せいに項羽の故郷、楚の歌が流れ
てきた。それを聞いた項羽は、楚
の民も劉邦の人柄にひかれて下っ
たに違いないと、自分から民の心
が離れたことを悟り敗北を認め
た。これが四面楚歌のもとになっ
た故事だ。
秀吉はたびたび奈良の郡山など
で諸大名や公家衆と鷹狩などを口
実にして、お忍びで会うように
なった。その中には徳川家康もい
た。
秀吉はここで相模、小田原征伐
の方策をねったのだ。
小田原は北条早雲以来、後北条
氏の五代にわたって領有している
地域で、今は北条氏政、氏直父子
が守っていた。
秀吉にはすでに天下統一の既成
事実があったので攻める大義名分
は必要なかった。しかし、北条氏
の居城、小田原城は今までの城と
は違っていた。あの上杉謙信や武
田信玄でさえ落城させられなかっ
たその城は、自然の山、川、海を
巧みに利用し小田原の町全体を土
塁と空堀で取り囲んでいた。これ
は日本の城の考え方というよりも
大陸、明の城郭都市に近い考え方
だった。この城に籠城すれば何年
だろうが持ちこたえることができ
る。今の秀吉なら大軍で城を取り
囲むことは難しくない。しかし得
意とした兵糧攻め、水攻めなど城
攻めが何もできない難攻不落の城
だった。
秀吉は四面楚歌の秘策を考えて
いた。それは昔、大陸で楚の項羽
と漢の劉邦が争っていた時のこ
と。やがて劣勢になった項羽が垓
下という所に砦を築き立てこもっ
た。そこを劉邦が大軍で四方を取
り囲んだ。劉邦は民の心をつかん
で漢を起こした人物だけに項羽に
も兵を失うだけの無益な戦いをし
ないよう情に訴えることにした。
ある夜、四方の漢軍の中からいっ
せいに項羽の故郷、楚の歌が流れ
てきた。それを聞いた項羽は、楚
の民も劉邦の人柄にひかれて下っ
たに違いないと、自分から民の心
が離れたことを悟り敗北を認め
た。これが四面楚歌のもとになっ
た故事だ。