【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
小田原城包囲
秀次は伊豆、箱根山の近くに築
かれた山中城の攻略を任された。
途中、北条軍の奇襲部隊と交戦
し、松田康長らの死を覚悟した襲
撃に苦しみながらも山中城を攻略
した。その後、家康の部隊や宇喜
多秀家の部隊などと合流し鷹巣、
足柄、禰不川などにあった諸城を
制圧して、三日あまりで小田原に
侵入した。
堀秀政、池田輝政、丹羽長重な
どの部隊も伊豆、熱海口から次々
と小田原へ集結した。
天正十八年(一五九〇年)四月
六日
秀吉も伊豆の湯本にある早雲寺
に本陣を構え、小田原城を包囲す
るのを待った。
上野では真田昌幸、上杉景勝、
前田利家の部隊が松井城を攻略
し、小田原に向かっていた。
海からは長宗我部元親、九鬼嘉
隆、脇坂安治らの水軍が兵糧輸送
にあたった。
やがて小田原城の包囲が完了す
ると秀吉は城の近くにある石垣山
に築いた一夜城に移り長期戦をす
る姿勢を示した。
石垣山からは小田原城が一望で
きたが、その全容に秀吉は驚嘆し
た。そしてすぐに京にいるねねに
手紙を書き、従者を向かわせた。
この頃、ねねは北政所と呼ばれ
るようになっていた。
北政所は京に住まわせるように
なった諸大名の妻子との融和をは
かり、なれない生活の不安解消に
努めていた。北政所のこうした気
遣いがあったからこそ、諸大名は
妻子を人質にとられたという不満
もなく秀吉に従っていたのだ。そ
の北政所のもとに秀吉の手紙が届
いた。
「小田原城を完全に包囲して憂い
はなくなったが、北条氏の降伏に
は時間がかかりそうなので千宗
易、金吾、淀と侍女らを小田原に
よこしてほしい」といった内容
だった。これは明らかに淀を目当
てにしていると北政所は見抜い
た。しかし秀吉と北政所は夫婦と
いうより、やんちゃな子とその母
親のような関係になっていたため
嫉妬心などなく、淀に伝え「行き
たい」と言えば行かせるだけだっ
た。
かれた山中城の攻略を任された。
途中、北条軍の奇襲部隊と交戦
し、松田康長らの死を覚悟した襲
撃に苦しみながらも山中城を攻略
した。その後、家康の部隊や宇喜
多秀家の部隊などと合流し鷹巣、
足柄、禰不川などにあった諸城を
制圧して、三日あまりで小田原に
侵入した。
堀秀政、池田輝政、丹羽長重な
どの部隊も伊豆、熱海口から次々
と小田原へ集結した。
天正十八年(一五九〇年)四月
六日
秀吉も伊豆の湯本にある早雲寺
に本陣を構え、小田原城を包囲す
るのを待った。
上野では真田昌幸、上杉景勝、
前田利家の部隊が松井城を攻略
し、小田原に向かっていた。
海からは長宗我部元親、九鬼嘉
隆、脇坂安治らの水軍が兵糧輸送
にあたった。
やがて小田原城の包囲が完了す
ると秀吉は城の近くにある石垣山
に築いた一夜城に移り長期戦をす
る姿勢を示した。
石垣山からは小田原城が一望で
きたが、その全容に秀吉は驚嘆し
た。そしてすぐに京にいるねねに
手紙を書き、従者を向かわせた。
この頃、ねねは北政所と呼ばれ
るようになっていた。
北政所は京に住まわせるように
なった諸大名の妻子との融和をは
かり、なれない生活の不安解消に
努めていた。北政所のこうした気
遣いがあったからこそ、諸大名は
妻子を人質にとられたという不満
もなく秀吉に従っていたのだ。そ
の北政所のもとに秀吉の手紙が届
いた。
「小田原城を完全に包囲して憂い
はなくなったが、北条氏の降伏に
は時間がかかりそうなので千宗
易、金吾、淀と侍女らを小田原に
よこしてほしい」といった内容
だった。これは明らかに淀を目当
てにしていると北政所は見抜い
た。しかし秀吉と北政所は夫婦と
いうより、やんちゃな子とその母
親のような関係になっていたため
嫉妬心などなく、淀に伝え「行き
たい」と言えば行かせるだけだっ
た。