【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
文禄の役
 肥前、名護屋城はわずか五ヶ月
で完成した。しかしその規模は大
坂城に匹敵し、五層七重の天守、
多数の曲輪などを配置した頑強な
要塞であり、秀吉好みの金箔など
で装飾された豪華さも兼ね備えて
いた。
 城の周りには全国から集まる諸
大名のために庭園などもある邸宅
が建てられ、その数は百二十棟を
超えた。
 十六万人を超える将兵を目当て
の店も並び、各地から商人によっ
て兵糧も運ばれた。
 皮肉にもこれによって戦続きで
荒廃していた九州全体が急速に復
興していった。

 文禄元年(一五九二年)
 毛利輝元、九鬼嘉隆など水軍の
ある諸大名が朝鮮に渡るための軍
船を用意した。
 朝鮮に経由する地の船奉行
 朝鮮、早川長政、毛利高政、
    毛利重政
 対馬、服部一忠、九鬼嘉隆、
    脇坂安治
 壱岐、一柳可遊、加藤嘉明、
    藤堂高虎
 名護屋、石田三成、大谷吉継、
     岡本重政、牧村政吉 
 朝鮮に出兵する部隊
 一番隊、小西行長、宗義智、
     松浦鎮信、有馬晴信、
     大村喜前、五島純玄
 二番隊、加藤清正、鍋島直茂、
     相良頼房
 三番隊、黒田長政、大友吉統
 四番隊、毛利吉成、島津義弘、
     伊東祐兵、島津忠豊
 五番隊、福島正則、
     長宗我部元親、
     蜂須賀家政、
     生駒親生、来島通之
 六番隊、小早川隆景、
     小早川秀包、立花宗茂
 七番隊、毛利輝元
 八番隊、宇喜多秀家
 九番隊、羽柴秀勝、細川忠興 

 同年三月に秀吉は京を出陣し
た。四月十一日には一旦、安芸、
広島城に滞在した。
 秀吉は広島城が聚楽第を手本に
築城されたことを知っていたので
立ち寄り、城内をじっくりと見て
回った。それから毛利輝元、小早
川隆景の歓待を受けて親交を深
め、厳島にも渡り厳島神社で九州
征伐以来、二度目の戦勝祈願をし
た。
 四月十九日に朝鮮への渡海命令
を発すると自身は二十五日に肥
前、名護屋城に到着した。
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