【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
会津征伐
 この頃、義弘の所領、日向で伊
集院忠真が謀反を起こした。これ
には義弘の子、家久と兄の義久が
鎮圧に向かったが治まらず、家康
の仲裁を頼むことになった。
 年が明けた慶長五年(一六〇〇
年)三月に家康の取り成しで解決
したが、このことで家康は島津一
族に明の大砲はなく戦力も衰えて
いると判断して軽視するように
なった。
 同年五月になると家康は会津の
上杉景勝が予告もなく城の改修や
新たに築城したことを口実に上洛
を促す書状を送った。
 景勝が城の改修や新たに築城し
たのは朝鮮出兵や伏見城の工事に
駆り出されたことで疲弊していた
所領を復興させるためだった。
 家康の書状が届く直前に直江兼
続のもとに来た三成の使者から、
家康が大砲を手に入れたことなど
を聞き知っていた景勝は家康の身
勝手さに怒り、上洛命令に対して
拒否する書状を直江に送らせた。
 家康はすでに島津義弘に会津征
伐となれば伏見城の留守居役をし
てほしいと頼んでいた。これは直
江の書状の内容がどうであれ会津
征伐をすることを決めていたとい
うことだ。家康は手に入れた大砲
を早く使ってみたかったのだ。
 義弘はこのことで、たとえ朝鮮
出兵で疲弊した者でも容赦しない
家康の非情さに不信感を募らせ警
戒するようになった。
 家康のその慎重で疑い深い性格
が災いして本来、味方になるはず
の諸大名を次々に敵にしていっ
た。

 慶長五年(一六〇〇)七月二日
 家康の命令で大谷吉継は兵千人
を率いて会津征伐に向かった。し
かしそれは見せかけで、吉継は三
成に近づき、その真意と今後の動
きを知らせる役を家康に願い出て
許しを得ていた。そこで三成の蟄
居している近江、佐和山城に近い
美濃の垂井宿に向かった。近くに
は関ヶ原があった。
 垂井宿に着いた吉継はすぐに三
成のもとへ従者を向かわせ、近く
に来ていることを伝えさせた。
 しばらくすると三成の使者が
やって来て、佐和山城で会うこと
になり、吉継は数人の従者だけを
連れて向かった。
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