その唇に魔法をかけて、
「……美貴、東京に行ってたんだってね。ここから逃げ出したんじゃないの?」

 すると彩乃が小さな声でぼそりと呟いた。

「どうして帰ってきたの? こんな田舎より東京の方が美貴にとって住みやすいでしょ?」

 少しでも曖昧な態度ではいけない。ちゃんと向き合わなければと彩乃が向き直ると同時に美貴は彼女に視線を合わせた。

「彩乃ちゃん……ごめん、私、嘘なんかつくつもりなかったんだ。かえでさんが言ってたことは全部本当だよ、私はホテルグランドシャルムの総支配人の娘で、大学を卒業したらそこに就職することになってたの」

「だったら――」

「私、内定取り消しされちゃったから……」

「え?」
腹を割ってそう言うと、彩乃が言葉を失った。

「私、この歳まで一回もアルバイトしたことないんだ。だから社会人初心者にはまだ務まらないんだって言われた。でも花城さんのお父様の計らいで黎明館でお仕事させてもらえるようになったんだけど……」

 今まで言えなかった胸の内を言葉にして並べる。それを彩乃は黙って聞いていた。

「誤解しないで欲しいんだけど、もちろん黎明館だって老舗の高級旅館だよ。世間知らずな私にみんな親切にしてくれた……だから失敗するたびに落ち込んで、迷惑かけてるって思ったらここにいちゃいけないような気がして……だけど逃げたって思われても仕方ないと思ってる」

 今にも泣きだしそうだった。なんとか震える声を抑えていると、彩乃が眉尻を下げた。

「だから私、変わりたいの。今までの弱い自分から」

「美貴……」

 きっと彩乃にとっては言い訳にしか聞こえないだろう。「だから何なんだ」と言われてしまえば、口をつぐむしかなかった。
< 141 / 314 >

この作品をシェア

pagetop