その唇に魔法をかけて、
 酒屋から喫茶店までさほど距離はなく、照り付けるような暑さに身体が水分を欲していた。額に滲む汗をハンカチでそっと拭い、店に入るとマスターが出迎えてくれた。店内は相変わらずレトロな雰囲気で、マスターがカウンターでひとり仕事を黙々とこなしていた。中年の男女が奥の席に座っているだけで、他に客はいなかった。

「いらっしゃいませ」

「アイスコーヒーお願いします」

「かしこまりました」

 寡黙なマスターが注文を聞き入れると、慣れた手つきでアイスコーヒーを作っていく。

(そういえば……喫茶店とかひとりで今まで入ったことなかったな)

 東京にいる頃は常に友人か、世話役の水野が付き添っていた。ひとりで行動することに慣れていなかった頃に比べたら、今の自分はかなり変わった気がした。

 初めは慣れない土地に慣れない仕事で泣きはらした夜もあった。里心がついて父親や水野に何度も泣き言の電話をしようとした。けれど、車をすっとばして花城が東京まで迎えに来てくれたあの日以来、なぜか東京を懐かしく思うこともなくなった。むしろ、今まで以上に仕事に精を出すようになり、花城に認められようと手話も着実に上達しつつあった。

(これって恋のパワーってやつかな……)

 そう思うと途端に気恥ずかしくなり、いつの間にか運ばれてきたアイスコーヒーを一気に吸い上げたその時だった。

 ふと、窓の外を見てみると黎明館へ帰るバスが来る停留所に一台のバスが停まっていた。数十分に一回だけしか来ないバスだ。まさか、と思い焦って時計を見る。

(乗らなきゃいけないバスって、あれ……じゃないよね?)



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