その唇に魔法をかけて、
 夏になると、都会に住んでいる金持ちが優雅なひとときを過ごすためにやってくる。そんな普段住人のいない静かな環境が気に入った花城は、マンションごと買い上げて自らオーナーになった。潮騒を聞きながら煙草を一本取り出すと、慣れた手つきで火をつけた。

 夢は頭の奥底からやって来る。そして途切れとぎれの記憶と忘れかけていた想いが複雑に絡み合う深層心理の化合物だと思っていた。

 疲れているせいか、父親のせいなのか何かにつけて言い訳を探してみたが、結局自分が大切にしている思い出だからこそ、映像になって出てきたのだ。そう思うと滑稽に思えてきた。

 花城は無言で先ほどの夢をもう一度思い起こしてみた。

 その当時、年端もいかない小娘にいきなり唇を奪われたことは、冗談にしても花城にとって衝撃だった。深川美貴という存在が脳に焼き付けられたのはおそらくそれがきっかけだろう。

 まだクマのぬいぐるみを大切そうにに抱えているくらい幼かった彼女が、父親と仕事の関係で黎明館に滞在していたのはたった一週間だった。彼女と過ごした時間は花城にとって長いようで短かった。


 東京へ帰る間際、美貴は帰りたくないと駄々をこねて黎明館の中庭にある桜の木に登って降りてこなかった。そして世話役だった水野に諭されて、泣き喚きながら車に乗せられ帰っていった。

(いつまでもガキじゃないか……)

 今の彼女はすっかり大人の女性になっていて、あの時のことを思い出すと花城は思わず口元をやんわり歪めた。
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