その唇に魔法をかけて、
「寒い。早く中に入ってドアを閉めてくれ」

「え? あ、はい!」

 横目で睨むように見られてハッと我に返る。慌ててドアを閉めると総支配人室にふたりだけという緊張感が湧いてくる。

「ふ、深川美貴です。今日からお世話になります」

 美貴は、昨日コンビニでタクシーを横取りしてしまったことをまず謝らなければと、何度も頭の中でリハーサルしたつもりだったが、その男の雰囲気に圧倒されてすっかり頭からすっ飛んでしまっていた。

 昨日、彼に会ったときはずいぶんラフな格好をしていた。それに髪の毛も下ろしていたせいか、どことなく雰囲気が違って見えた。本当にあのコンビニで出会った男と同一人物なのか、記憶している昨夜の男と今目の前にいる彼を頭の中で照らし合わせてみた。

「黎明館総支配人の花城響也だ」

 改めて名乗られると、やはり昨夜の男は彼だったのだと思い知らされ、そんな総支配人のタクシーを横取りしてしまった失態を思い返すと眩暈がしそうだった。

「やっぱり私、総支配人のタクシーを――」

「来客の前じゃなければ花城でいい。ったく、昨日はえらい目にあったんだからな、挨拶の前にひと言文句を言わせろ」

 花城はソファに座ると長い足を組み、肘沖置き頬杖をつきながら機嫌の悪そうな顔をした。
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