その唇に魔法をかけて、
「あ、あの! 本当に昨日は――」

「まぁ、たまたま車検で車がなかった俺の運の尽きだ。昨日のことは忘れてやる」

 同じ総支配人とはいえ、父とはだいぶ毛色の違うタイプだ。その横柄な言葉に美貴の身体がこわばる。

 花城の話を聞くと、美貴がタクシーを奪った後、彼は別のタクシーを呼ぼうとしたがなかなか捕まらず、マネージャーである藤堂に迎えにこさせようと考えたが、私用で仕事の邪魔をするわけにもいかず、結局、暗い夜道を徒歩で黎明館に帰ってくる羽目になったらしい。

 黎明館に無事に到着した時に、花城がそんな目に遭っていたとは知らず、美貴は申し訳なさでいっぱいになった。

「本当に申し訳ありませんでした」

「まぁ、無事にここへ着けたなら、別にいい」

 そう言うと花城は気にするな、と少し笑った。昨日はゾクッとするような鋭い目を不良たちに向けていたのに、今はその影もない。かと言って彼は藤堂のように温厚で柔らかそうな性格というわけでもなさそうだ。

「深川さんから話は全部聞いている。わからないことがあったらマネージャーの藤堂か畑野に聞いてくれ」

「はい。わかりました! よろしくお願いします」

 花城は、隙もなく掴みどころのない印象があった。しかし、時折自分を見つめる瞳にどことなく温もりを感じた。

「……お前、本当に深川美貴……なのか?」

「え……?」

 その時、ボソリと花城が小さく呟いた。美貴は花城とは距離があったため、声がこもって十分に聞き取れなかった。


「いや、なんでもない。朝礼が始まる時間だから、もう下に降りろ」


「はい、それでは失礼します」


 美貴はもう一度花城に頭を下げると総支配人室を後にした。
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