その唇に魔法をかけて、
 美貴がいなくなった総支配人室には、ひとり花城が残っていた。

「深川美貴……か」

 部屋から見える張り巡らされた黒い血管のような桜の木を窓越しに見下ろして、花城はぼんやりと浮かんできた回想に耽りかけたその時だった。タイミングを見計らったかのように胸ポケットの中のスマホが鳴った。

「はい」

『ご無沙汰しております。グランドシャルムの水野です』

 おそらくこの男から朝、電話がかかってくるだろうと予測はしていた。花城は水野の平坦な声音に顔を曇らせながら言った。

「どうも、そちらもお変わりないようでなによりです」

『お嬢様のご様子はいかがでしょうか?』

「ええ、つい今しがたここへ挨拶しに来ていただきましたよ」

 それを聞いた水野は電話の向こうでほっとしたような息をつく。

『そうですか、安心しました。深川にもそのようにお伝えしておきます。これからも定期的にご連絡さしあ
げても?』

「構いませんよ」

『ありがとうございます。それでは』

 手短に電話を切ると、それと入れ替わりに藤堂が部屋へ入ってきた。

「総支配人、朝礼が始まります」

「あぁ、わかってる」

 花城が再びポケットにスマホをしまうと、それを見た藤堂が尋ねた。

「今のお電話は……?」

 電話を切った時の花城の表情が気になって藤堂は訪ねた。すると、花城は鼻で笑うとなんでもないというように首を振った。

「いけ好かない銀縁眼鏡男からだった」

 名前は出さなかったものの、藤堂は花城が誰のことを指していったのか察すると、小さくため息をついた。

「まったく、子供みたいなこと言わないでください。どこで誰が聞いてるかわからないんですからね」

「はいはい。おっと朝礼が始まるな」

 藤堂の説教は一旦始まると長い。花城は朝礼に向かうことをいい口実に、藤堂からうまく逃げ失せた。
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