その唇に魔法をかけて、
(終わった……)

 時計を見るとすでに午後の八時を回っていた。朝が早かっただけにすでに美貴の瞼は重たくなり始めていた。今日は早上がりで、いつもより余裕のある夜の時間を過ごせそうだ。

「お疲れ様です」

「あぁ、深川さん、お疲れ様です。だいぶ仕事にも慣れてきたみたいですね」

 フロントの前を通ると、藤堂が来客のリストをチェックしながら業務を終えようとしていた。仕事中は眼鏡をかけているせいで少し神経質そうに見えるが、藤堂が眼鏡のブリッジを押し上げて美貴に視線をやった。

「かえでさんが、なかなか芯のある子だって褒めてましたよ」

「え? そう、ですか……でも、まだできない事だらけで皆さんにも迷惑をかけてしまって……もっと頑張らなくちゃって思ってるんですけど」

 ここへ来て、すでに一か月になろうとしている。それなのに、いまだに初歩的なミスをやらかしてしまう自分に情けなさを感じていた。

「無理は禁物ですよ? 仕事に慣れてきた頃に疲れってどっときますから」

 藤堂がにこりと笑うと、美貴の胸に温かなものがほんわりと広がった。

 藤堂は花城とはまた違った魅力がある。触ると柔らかそうな栗色の髪の毛に、男では珍しいくらいのきめ細かな肌をしていて長い睫毛が印象的だ。中性的ではあったが、どことなく男らしい精悍な顔立ちをしていた。

「これからお帰りですか?」

「はい、桜木さんと帰ろうと思って探してるんですけど……」

「桜木さんはまだみたいですね」

 彩乃は父親と寮の近くにあるアパートに住んでいる。いつも一緒に帰っているわけではなかったが、仕事の終わる時間が同じタイミングの時は、どちらからともなく声をかけて一緒に帰っていた。
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