その唇に魔法をかけて、
(えっと、午後の担当はマルタニ商事の三田様のお部屋っと……)

 午前中の業務を終え、控え室で午後から来るマルタニ商事の社員が宿泊する自分の担当を確認していると、ひとつ上の先輩である加藤陽子が部屋に入って来た。

「あ、深川さん、いきなりで申し訳ないんだけど……」

 眉尻を下げ、陽子が顔の前で手のひらを合わせた。

「あのね、お願いがあるんだけどさ、今日のマルタニ商事の担当、代わってくれないかな?」

「え……?」

 聞く所によると、陽子は去年、漆畑という社員の担当だったが些細なことで怒らせてしまい、また今年も同じ担当になってしまったため気まずいのだという。

「あたしさ、ちょっと苦手だったんだよね……せっかくの旅行なのにまた嫌な思いさせても悪いって思って」

「でも、勝手に交代しても大丈夫なんですか?」

「かえでさんには私から言っておくから、じゃあね」

「かえでさんには私から言っておくから、ね? お願い」

 先輩の頼み事だし、なんとなく断れなかった。けれど、仲居頭であるかえでに話を通してくれるのならば問題ないだろうと、美貴は頷いた。

「はい、わかりました」

「ありがとう!助かるわ、じゃあね」

 ポンと肩を軽く叩いて部屋を後にする陽子の背中を笑顔で見送る。くるりと踵を返した陽子の口元にニヤリとした笑みにも気づかずに。

 思いのほか中休みの時間が余ってしまった。せっかくの休憩時間を無駄にここで過ごすのももったいない。

(もしかしたら裏手の道場にいるのかな?)

 美貴は私服に着替えて更衣室を出ると、先ほどから姿の見えない彩乃を探しに行くことにした。


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