君にアイスを買ってあげるよ
ゲロ甘紅茶の餌食になりました
用事を片付けて会社に戻ると、森田さんがまだ席についてパソコンをにらんでいた。
定時を過ぎて、部屋は閑散としている。時折おきる僅かな椅子の軋みや、パソコンから吐き出される風の音が静かな部屋に響いていた。
森田さんも仕事に集中していて、思い出したようにキーの上を指が動く。
邪魔してはいけない気がして、でもこっそり覗いているのも嫌で、お疲れさまですと声をかけた。
「橋田、直帰にしなかったのか」
パソコンから目をあげた森田さんに、疲れが浮いている。
「頼まれた書類を持ち帰るのも心配なので。帰る途中に会社に寄っても、さほど変わりません」
「ははっ真面目だな、橋田は」
森田さんが笑うとまわりが明るく華やぐ。そして森田さんを笑顔にできた者も、その笑顔につられて笑みを浮かべる。
そんな光景をいつも見てきたのに。それでも、いつも森田さんの笑う顔は混じり気のない笑顔で、目にするとほんわかとしてしまう。
ぎしっと背もたれに寄りかかって伸びをしてから、立ち上がる。
「ちょっと休憩。橋田も付き合えよ」
森田さんに否はない。
「わかりました。休憩室に行きますか」
「いや、誰もいないからここでもいいだろう。紅茶を入れるから待ってろ」
誰か来たのが嬉しいのか、ついて行こうとするのを手でおさえて座っていろと椅子を引き出してくれた。
森田さんの背中を見送りながら、もう歯が浮くような感覚におそわれている。
森田さんの紅茶はすっごく甘い。疲れた時には甘いものを欲しくなるけれど異常な甘さだ。
そして自分のだけならいいのに、同じものを人にもすすめてくる。それだけは止めて欲しい。やんわり言ったところで聞き入れてくれない。残業に付き合うことが一番多いだけに、この部所では一番激甘紅茶の犠牲になっていた。
森田さんの使っていたパソコンまわりには、秋冬の新商品のカタログがあり、バイヤーごとの試算を出すためにエクセルが立ち上がっていた。
しばらく見ていると、それも待機画面へと変わっていった。季節の写真がカレンダーをまくるように移り変わっていく。
ふと見ると、書類に紛れて菓子パンが置いてあった。おやつにしては遅いので、夜食かもしれない。
何をするでなく、手持ち無沙汰で待っていたらマグカップを二つ持った森田さんが帰ってきた。
ほら、と言って渡されたカップは熱くて自分の手の平が少し冷たかったことに気づいた。
「今日は遅くまで頑張るつもりなんですか」
「いや。きりのいいとこで帰るよ」
「夜食を用意しているから、まだ頑張るのかと思いましたよ」
ああ、と森田さんがパンへと目をやる。
「俺はね、買うと満足するタイプなんだよ。遠足前の気分を長引かせたいってとこかな。いつでも食べれらる、好きな時に食べられるって思うと楽しみで、べつにすぐ食べなくても構わない。もちろん腹が空いてたら、すぐ食べるけどね」
菓子パンを手に取ると袋から出して半分にちぎり、ちぎった方を森田さんが取って袋に残った半分をくれた。
「ご馳走さまです。経済的な胃袋してるんですね」
「まったくだ。すぐ傷むものだと早く食べなくちゃいけないから、楽しみが減るかもな」
「じゃあケーキとか和菓子みたいなとっておけない物は、あまり楽しくないじゃないですか」
「そうなんだ。ご褒美って奮発してもすぐなくなってしまうからな。アイスならもつぞ」
「どんだけワクワクしたいんですか」
笑いながら森田さんがパンにかじりつく。僕も頬張ると挟んであるクリームが、口いっぱいに広がって栗の甘さを残して消えた。
「たまには誰かと分け合って食べるのもいいだろ」
にこっと笑った森田さんは、やっぱり寂しかったんだろう。
誰かと分け合えるのは、パンだったり相手の考えだったりいろいろあるのかもしれない。
誰かと何か分け合えるのなら。
気持ちや感情、思い出を知ることができるのなら、
それは やっぱり特別なんだと思った。