…だけど、どうしても
あの熱帯夜だけでもう十分だったのに、彼のことを忘れられたことなんかなくて。
その日、私はぼんやりとしたまま全ての講義を受け終えた後、帰り支度をしていた。
講義が終わるのを待ちかねていたように学生たちは講堂を次々に出ていき、すぐに人はまばらになった。
「かーのっ」
そんながらんとした講堂に顔を覗かせたのは、数少ない友達の中でもとりわけ仲の良い美砂だった。
「今日このまま帰る? お茶してかない? 話したいことあるんだけど〜」
美砂は大体私の時間割を把握していて、いつもこうして誘ってくれる。
明るくて、可愛くて、人気者なのに、私と一緒に居るのが一番楽しいと言ってくれる。
「うん。」
私は顔をほころばせて頷いて、美砂と一緒に講堂を出る。
あそこのカフェでいいかなーなんて言いながら、美砂は楽しそうにスマホをいじっている。
「いやー、なんかさ。今正門のとこに、すごいイケメンが居るらしくてさ。芸能人じゃないかって。」
「え? 誰?」
聞いてもわからないかもしれないけれど、ついそう聞いてしまう。
「それがわかんないらしいんだよーモデルかなんかかも。もー、ラインが大騒ぎ。うちらが通る頃、まだ居るかなあ」
それでスマホに齧りつきなわけね。私はくすっと笑う。私には個人的にそういうやり取りをする友達はいないから、知らなかった。そう思ったのを見抜いたように美砂が睨んでくる。
「花乃、また見てないでしょスマホ! グループでもみんな言ってるよ!」
「ええっ?」
「もー絶対花乃だけ未読だ、またー」
「ご、ごめん…」
「いーけどお」
そういえば今日はずっと講義続きだったので、通知をオフにしている。
そんな真面目な学生は花乃くらいだよ、と美砂は言う。
「ま、まだ居ることを願おう。拝もう。見てこ見てこ。」
上機嫌で美砂が走り出さんばかりに外に向かうので、私もつられて早足になった。