…だけど、どうしても
彼は優しい。私の気持ちを優先して、急かすようなことも、責めるようなことも一切言わないし、そんな空気も絶対に醸し出さない。
それをいいことに、私は甘えて、曖昧な関係を続けている。
本当は気づいている。
彼ほどの人なら、私みたいな小娘を誘惑することくらい容易いはずなのに、そうしないでいてくれているけれど、時々、私が彼と目を合わせていない時、彼がじっと、熱っぽい目で私を見つめていること。
ふいに会話が途切れた時、顔を見合わせるとそのまま艶っぽく視線を絡めそうになって、それを止める為にさり気なく目を逸らすこと。
隣り合って歩いている時、ふと私の腰を引き寄せそうになって、その手を途中で下ろしていること…
どうして、私なんか。
そうは思うけれど、彼は誠意を尽くしてくれているし、それを疑うことなんてできない。
このままでいいはずがない。
まさか自分が誰かを愛してしまうなんて、そんなことはあるはずがないと信じていた。
今までそんな気配すらなかった。恋をするなんて、そんな意志なんかなくて。
だけど出逢いはあまりに突然で、自分ではどうしようもないくらい、あっという間に、彼に飲み込まれた。
「あの人は、芹沢の坊ちゃんですよ。」
黒田はあの時そう言った。知っているのですか? と前置きをして。