…だけど、どうしても

3.


彼の右肩はやっぱりびしょ濡れになっていた。
素知らぬ顔で、車を発進させようとするので、もう、待って、と私は引き止める。

「風邪ひいたら大変でしょ。」

鞄から取り出したハンカチで、彼の皮膚の色が透けそうに濡れてしまったワイシャツの上から当てる為に、手首を引っ張った。

その瞬間、びくっ、と彼の腕がかたく震えた。
あっ、と私は自分の過ちを悟る。不用意に触れてしまった。自分の油断を呪ったって遅い。私は自分が思う以上に彼に心を許してしまっていることに今更気がついた。

「…悪い…ありがとう。」

それでも何も気づかないふりをして、ハンカチで袖を拭くと、彼は目を合わせずにつとめて平静にそう言って、ハンドルに手を戻した。
いいえ、と私も何でもないふうを装って、助手席に身を沈める。

それでもゆっくりとスムーズに彼は車を走らせる。
ワイパーが何度も目の前を通っては戻るけれど、降り続く雨は夜景を滲ませ続ける。

彼も私も、さり気ない会話のきっかけを探している。なんてこと。危うい均衡を私の方から崩してしまうなんて。

どうすればいいのかわからない。
私は今まで、男の人との距離を操作する術は心得ていると思っていた。少なくとも今までは、うまくやってきた、はず。
相手にけして好かれ過ぎず、嫌われず、健やかな好意だけを提示して、性的な匂いを漂わせず、利益だけを快く引き出させて。
そうやって今まで父の仕事を陰ながら支えてきたし、失敗したことはないと思う。

だけど彼は…彼だけはどんな男の人とも違う。

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