…だけど、どうしても
「どうした?」
はっと顔を上げると、彼が怪訝そうに私を見ていた。
「ううん、なんでも…」
どれくらい黙り込んでしまったのだろう。いつも彼が車を止めてくれる家のそばの角に近づいていた。
「この雨だし、家の前まで送るよ。黒田が怒り狂って出てきたら、ちゃんと挨拶するから。」
いつも私は、黒田を理由に彼に家の前まできっちり送り届けてもらうことを断っていた。
本当の理由は父の方だろうと、彼もわかっているだろうけど。
「ううん、いいの。傘もあるし…すぐだから。」
「……」
彼は不服そうに黙ってしまう。
けれどそれでもちゃんと、いつものところで止めてくれる。
優しい人。
「ありがとう。今日も本当に楽しかった。」
傘に手をかける私を引き止めようと、手を伸ばしかけて、やめて。
口を開きかけて、また黙って。
お願い、言わないで。彼が言葉を発するのを防ぐように私はドアに手をかける。
待って、もう少し一緒に居たい…
私だってそう思っている。だけど、言わないで。
私自身のせいで、脆く崩れかけている均衡に怯えて雨の中、足を踏み出す。
「おやすみなさい。」
屈んでドアの外から笑ってみせてから、ドアを閉めた。
彼はいつものように、おやすみ、とあの美しい笑みを浮かべてくれない。彼の声を聞けないまま、私は家に向かって歩きだした。
それなのに…バタン、と背後でドアを閉める音がした。
「花乃…!」
ああ、どうして。
私は振り返ることができず、足を止める。
あなたは傘を持っていないのに。
私はもう、あなたを拒む言葉を、持っていないのに。