…だけど、どうしても

自宅のマンションのドアを開けると、いい匂いがした。

「おかえりなさい。」

リビングに足を踏み入れると続きになっているダイニングの奥のキッチンで花乃が振り返って微笑んだ。和食だろうか。長い髪を軽く束ねて見える、花乃の首から背中にかけての綺麗なラインを眺めながら、俺は食欲を刺激される匂いを吸い込んだ。
花乃は再び振り返り、リビングのソファにもたれかかって立ったままでいる俺を見て不思議そうに首を傾げた。

「何?」

「いや、いいもんだな、彼女がキッチンで食事の支度してる眺めって」

「もう、何? それ」

結婚しようか。早まって口から出かかるトンデモ発言を、すんでのところで飲み込んだことなど気づくはずもなく、花乃はくすくす笑いながらまたキッチンに向き直る。
男の俺がかけてもなんの違和感もなさそうな、シンプルな黒いエプロンは、花乃が唯一この部屋に持ち込んだ物だ。

いつでも来てくれていいから。
付き合い始めてすぐ、そう言って俺は花乃にこの部屋の合鍵を押しつけたが、花乃に限って一人で俺の部屋に入ってくることなどあるわけがなかった。
合鍵を渡した女なんてもちろん初めてで、申し訳ながることなど一切ないのだが、花乃は俺のテリトリーに入ることには極端に慎重だった。
手料理が食べたい、というベタな文句で家に連れ帰り、俺がすっかり胃袋を掴まれてからは、やっと、律儀に事前に連絡を入れてから時々こうして夕飯を作りに来てくれるようになったが、花乃が化粧品や服など、自分のものをこの部屋に置くことは、どんなに小さなものでも無い。
必然的に泊まっていくことはほとんど無い。
< 51 / 115 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop