…だけど、どうしても
名前も聞いていなかった。
俺は部屋に戻り、泳ぎ疲れて気だるい身体をベッドへうつ伏せに沈み込ませながら、自分に呆れる。
名乗ってすらいない。
俺は半裸で、名刺もペンも持っていなかった。連絡先を交換するのは難しかっただろう。
だけど、名前を聞くくらい。今夜の約束を取り付けるくらい。
まさかあんなにあっさりと会話を切り上げて、去って行かれるなんて。
脈無し、なのか。出来事だけ思い返せばそれは間違いない。少しでも俺に好意を覚えれば、お礼をさせてほしい、くらいのことは言えるだろう。
だけど、あの目…時々俺と目を合わせた時の、あの眼差し。俺がたまらずに射抜くように見つめてしまった時に僅かな時間ながらも見つめ返してくる瞳に、微かに宿る、俺と同じ欲望。
全部気のせいだっていうのか?
はにかむようなあの笑顔も、ふとした時に俺を、全てを許した相手だと思わせるような、あどけない笑顔も、全部どうでもいい男に向けたもの?
まさか。だけど、実際に。
プールサイドに身を乗り出し、あの細い腕を掴んでいた引っ張った時…あの、薄い茶色の両目が見開かれた時、彼女は何も考えられず俺に身を預けていたはずだ。
水中でも彼女は美しかった。吐き出した泡に包まれ…髪も、服もふわりと水に浮いて…人魚のようだった。あの幻想的な光景は二度と忘れられない…あんなに美しいものを、俺は見たことが無い。
突然息も出来なくなって、普通なら冷静な判断などできなくても仕方ない状況で、見ず知らずの俺が自分をあの男から隠してやったことに気づき、俺に従った。
勘が良いし、明晰な頭脳を持っているのだろう。話し方にも知性があった。
俺の好意に…あるいは欲望に気づかないはずがない。
会話は一見弾んでいるようで、実はするすると滑っていて、彼女はほとんど自分の情報を残していかなかったし、俺のアプローチはやんわりとかわされて続けていた。
彼女は、どう考えても、やはり、意図的に逃げたのだ。
何故…俺に魅力を感じなかったから?
わからない…
考えがまとまらない。
俺はいつの間にか微睡んで、眠りに引き込まれていった。