真心を掌で包み込んで
それから数日。
いつものようにおとなしそうな清楚系の女性が来店したが、この間イケメンの恋人と店内でじゃんけんをしたことを気にしているのか、依然よりも深く頭を下げて「ありがとう」と言ってくれた。わたしも、気にしなくていいですよ、の意味を込めて「ありがとうございます」と頭を下げたけれど、ちゃんと伝わったかしら。
閉店間際になって橋本さんが来店した。そちらを向いて「いらっしゃいませ」を言うと、橋本さんは立ち止まって会釈をしてからお弁当コーナーへ歩いて行った。
今日も橋本さんが最後のお客さんかな。最近は他にお客さんがいないのをいいことにほんの数分間雑談をしている。おかげで少しは親しくなれたような気がする。今日は何弁当を選ぶんだろう、なんて考えていたら、店の自動ドアが開いて、緩んでいた頬が硬直した。来店した男女、特に男性の顔はよく知っている。前の職場の後輩、わたしが不倫をしてしまった人だった。ということは隣の女性は奥さんだろうか。
ふたりは店内をぐるりと見回し、他にお客さんの姿がないことを確認すると、真っ直ぐにわたしの元へとやって来た。
ついに不倫を咎められる時が来たのか、と背筋を伸ばした、が。
「中村さん、その節は申し訳ありませんでした!」
女性に後頭部を押さえられ、後輩が深々と頭を下げたから、驚いて一歩後退りをした。
「中村さんには本当にご迷惑をおかけしてしまって。これ、お詫びの品です、受け取ってください」
女性がお菓子の詰め合わせらしきものをレジカウンターに置きながら言う。
「え、あの、ええ?」
話が読めない。話についていけない。とりあえず勤務中だからこれは貰えない。
おどおどしながらふたりの顔を交互に見ると、それに気付いた女性がちゃんと説明してくれた。
ふたりが付き合い始めたのは大学時代。その頃からド天然の彼に振り回され、付き合ったり別れたりを繰り返していたらしい。就職してもそれは変わらず、結婚の約束をしたものの、相変わらず些細なことで別れてしまう。そのときの喧嘩の理由は、彼が「全然料理上達しないねー」とへらへら笑ったからだそうだ。わたしが彼と関係を持ったのはその頃のことらしい。しばらくして怒りが引いた彼女が彼の部屋を訪ねたとき、ちょうど彼がわたしの部屋から持ち帰った大量の煮物があって、それを食べた彼女はあまりの美味しさに涙したとのこと。今まで「料理なんて面倒臭いだけ」と思っていた彼女は心を入れ替え、必死に料理の勉強を始めたらしい。それを機にふたりは入籍。夫婦に、既婚者になった。
その後も彼女が料理を覚えるまで、わたしが作ったお弁当で栄養を補っていたけれど、ド天然の彼の「おれの奥さん」発言で状況は一転。わたしは仕事を辞めて音信不通になってしまった。
それが数日前、わたしと同期だった男が、このスーパーで働いていることを知らせに来たから「やっと謝罪ができる」と喜んだらしい。
「私たちのせいで退職までさせてしまってごめんなさい。まさか不倫騒動になっていたとは思わなくて。数日前に彼から聞いて驚いてしまって」
「まさか中村さんが辞めた理由がおれに美味しいごはんを作ってくれていたからだなんて全然気付かなくて。最近なんだかオフィスの雰囲気が悪いなあって思ってたら、そういうことだったんですねえ」
「すみません、こういう人なんです……」
「中村さんと寝たときおれはフリーだったので不倫ではないって、みんなにも説明しておきました」
「彼説明下手だからちゃんと伝わったか分かりませんが……」
ふと見ると、いつの間にかふたりの後ろに橋本さんが立っていた。きょとんとしている。きっとわたしも同じ顔をしている。不倫騒動で会社に居づらくなって辞めたのに、まさか不倫じゃなかったなんて。そしてその騒動に巻き込んでしまった夫婦が、菓子折りを持ってお詫びに来るなんて。そんな笑い話は他にない。
顔を見合わせ、ふたり一斉に笑い出した。今度は後輩夫婦がきょとんとしていた。
閉店後外に出ると、橋本さんは寒空の下店の外で待っていた。ただでさえ疲れた顔が、寒さのせいで余計に疲れて見えた。それでも晴れやかな笑顔を見せて「ね、言ったでしょう。僕は貴女をそういう目で見ていないって」と言った。わたしですら無実だなんて思っていなかったのに、この人は最初から信じてくれていたんだ。そんな人がこんなに身近にいるなんて。もしかしたらこの人はエスパーなのかもしれない。
なんて馬鹿げたことを考えながら右手を差し出した。
「良かったら仕事場まで乗せて行きますよ」
握った橋本さんの手はひどく冷えていて。仕事場まで徒歩十五分でも、車ならほんの数分。その数分間、車の暖房で冷えた身体を暖めまくってあげようと思った。
ここ数ヶ月で一番心が澄んでいた。
わたしは潔白だ。この人と真っ当に、一から関わっていける。
(了)