奏―かなで―
綾瀬の前に行かなかった。
綾瀬の前に行けなかった。
綾瀬の前に行きたくなかった。
あたしの知らない人のことを想って歌う綾瀬の顔なんか、見ていたくなかった。
踏み出した右足を引っ込め、踵を返して重い足を動かす。
綾瀬の歌声とギターの優しい音色は、雑踏にもみ消されて聞こえなくなった。
今何を想うの?
あたしはあなたを
誰よりも何よりも
ひたすらに想っているよ
たった一度しか
会ってもいないのに
何でだろう あなたのこと
こんなにも想っているよ…
サビの部分の歌詞を、自分で勝手に変えて頭の中に流す。
昔からの癖だ。
作詞は出来ても作曲が出来ないあたしは、よく既存の曲に、自分なりに歌詞をアレンジして歌っていた。
歌うことは好きだった。
本気で歌手を目指した時期もあった。
だけど、そんな非現実的な夢には誰も頷いてはくれなかった。